したがって、組内のことはすべて五人組で連帯責任を負わなければならなかった。こうしたことから、末端の百姓は互いに規則に違反の無いように監視しあう、五人組制度に縛られていた。例えば、組内で違反があれば五人組でその責任を負い、年貢の未納者が出れば、五人組でその者の年貢を負担し、組内でその責任が負えなければ、村全体でその責任を負う連帯責任制度で、個人の自由は認められなかった。
そのため、組内から年貢の未納者が出ると大変である。まず五人組に負担がかかるが、余裕のない百姓にはそれを負担出来るものでなく、結局は村請制の原則からして、村民全員に負担がかかった。こうした年貢の未納に対して、嘉永六年(一八五三)に次のように通達している。
当丑年以後、千(万)一潰れ百姓これあり候節、その者未進(未納)米、村辻弁に出し候義相成らず候、庄屋
ならびにその組の方頭・五人組より、即年上納申し付くべき事
但、昨年申し渡し候通り、千(万)一欠落者これあり候節は、その段先ず聞き置き候様にと早速申し出
置き、行衛相知れず候はば、追て帳外届書差し出すべき候事
十月廿一日 三宅円司
大庄屋中 (「国作手永大庄屋日記」)
この文書は、仲津郡筋奉行から、仲津郡の各大庄屋にあてて出された年貢未納に対する通達である。この通達は大庄屋から当然支配下の村々へ伝えられることになる。年貢の未進者の負担を、庄屋・方頭・五人組に申し付けるというものである。これは、村内の農民全員に負担させると、その負担を負いかねて出奔(欠け落ち)する者が相次ぐと、亡村(荒廃した村)になる懸念があった。そのため、今年から村内の管理責任者である庄屋・方頭、それに組内の五人組で負担せよ、というものである(第40図参照)。
第40図 年貢米俵拵えの図
(「孝義旌表録略伝」豊津高校所蔵)
藩はこうした出奔に対して、享和三年(一八〇三)に、「生所を立ち去り候段は、必竟(ママ)かねがね不人気悪情故の儀、重畳不届に付き、向後右躰不埒(ふらち)の者あれば、急度(きっと)尋ね方申し付け、召捕え相糺(ただし)の上、取り計らい申し付け候」(「長井手永大庄屋日記」)と、出奔に対しては厳しく取り締まることを命じている。
藩では、年貢を確実に徴収するために、農民が年貢皆済(完納)の前に、商人に米を売って年貢を未納し、果ては出奔という事態を防ぐために、毎年秋の収穫前になると、商人の村入り商売の鑑札を大庄屋が預かり置き、年貢が完納されるまで、商人が村へ入って商売をすることを禁止していた。農民は、生活必需品を求めるにも、まず年貢の完納が第一に課せられていた。次の文書は、商人の村入り禁止の通達である。
当秋御年貢米、去る十五日初納め申し付け候、これにより御郡内諸商人札取り揚げ、大庄屋ども手元へ預
り置き、勿論御所務中は、商人ども村内徘徊いたし候はば、廻り役の者差し出し、召捕え置き候条、銘々
きびしく申し聞かせ候様、手堅く申し付けこれあるべき候、以上
(文化十三年)閏八月五日 (郡代)平林 茂兵衛
右の通り奉行所より申し来たり候間、手堅く申し渡さるべき候、以上
閏八月七日 (仲津郡筋奉行)井上与三右衛門
大庄屋中
このように、五人組制度や連帯責任制度は、年貢徴収や人民統制のために設けられた制度であったと言える。こうした制度のもとに、いかに確実に年貢を徴収していくかが、大庄屋をはじめ、村役人に課せられた最も重要な職務であった。
こうした地方支配組織が、相互扶助と相互監視を通じて、農村の治安維持、年貢の確保が連帯責任制度のもとに、地方支配を支えていたと言えるのである。