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豊津町域の大庄屋の手永支配

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手永を取りしきる大庄屋の権限は極めて大きく、行政・税務・司法・宗門・作事など、諸般の政務が職責となっており、在地支配の実権を握っていた。こうした職務に対して大庄屋は、藩から扶持が支給されるなど、武士待遇を与えられていた。細川氏のあと、小笠原氏は大庄屋・庄屋とも転勤制であった。
 現在の豊津町域は、小笠原時代の国作手永一五カ村の内、国分・惣社・国作・田中・有久・呰見・下原・上坂・綾野・徳政の一〇カ村、節丸手永一五カ村の内、節丸・光冨・上原・吉岡の四カ村、平嶋手永一四カ村の内、彦徳・徳永の二カ村、あわせて一六カ村から成っている。一六カ村の村高合計は五五四〇・八九六石(延享三年=一七四六)、人口二七九七人、軒数六二五軒(明治三年)である。これらの村々を国作・節丸・平嶋手永の大庄屋が総括し支配した(第66表・第41図参照)。
第66表 小笠原時代の豊津町域の村々
手永名村名村 高人    口軒数



国 分420,19813711525252
惣 社162,88734326614
国 作556,9871018919040
田 中347,69810010220245
有 久148,51439306914
呰 見357,121797315238
下 原203,173556311825
綾 野348,303777315032
上 坂132,18148509821
徳 政293,18336437917



節 丸919,496240218458104
光 冨665,12316915031982
上 原298,868595911825
吉 岡181,36853469926



彦 徳251,96512712525252
徳 永253,831839217538
合  計5,540,8961,4371,3602,797625
村高は延享3年(1746)『豊前国小倉領郡村高辻帳』(『豊津藩歴史と風土』第1輯)から人口・軒数は明治3年(1870)『京都郡誌』から

 

第41図 豊津町域の国作・節丸・平嶋手永の領域

 大庄屋の姓氏は、転勤によって赴任した手永名に改姓した。大庄屋の補佐役である子供役も同じように改姓している。手永名を苗字に使用できるのは、文政四年(一八二一)三月二十日の通達で、「大庄屋・子供役のほか、手永苗字相用候義、以後遠慮いたすべき事」(『中村平左衛門日記』)と、大庄屋と子供役のほかは、手永名の使用が禁じられた。
 大庄屋・子供役に任命されると、その職務の心得書が渡された。安政二年(一八五五)八月、節丸仁左衛門が節丸手永大庄屋に就任したとき受け取った心得書の大要は次のとおりである。
 
  一、常々油断無く相勤め、百姓は耕作に精を出し候様申し付け、検見・所務・年貢の取り立ては公平に申
    し付けること
  一、幕令・藩令をよく守り、庄屋・百姓から馳走、音物(いんもつ)(贈物)を受け取らぬこと
  一、ひいき、私欲、非道、わがままをしないこと。また縁者、親類などに頼まれ、貸し借りの取り次ぎを
    しないこと                             (「長井手永大庄屋日記」)
 
 の三カ条から成っている。第一条は、大庄屋の職務は、一番に年貢の取り立てが重要な任務であり、そのためには、百姓が耕作をおろそかにしないよう注意し、検見や年貢の徴収は公平に取り立てることを申し付けている。不公平な取り立ては、百姓一揆(いっき)や逃散(ちょうさん)などの騒動を起こす原因となるからである。第二条は、法令をよく守るよう怠りなく支配し、公平に支配するためには、庄屋・百姓から飲食のもてなしや、わいろを受け取ってはならないとしている。第三条は、ひいき、私欲、わがままなどを禁じ、貸し借りの取り次ぎを禁止する条文となっている。
 心得書は、手永内を円滑に間違い無く支配していく上で、大庄屋として守らなければならない、最も重要な心得として誓約していた。
 支配手永の政務は、大庄屋の役宅で執務した。国作手永では、大庄屋は国作村に居住していたが、役宅は大橋村に構えていた。大橋村には店舗を構え、農村に物資を供給する在郷町が存在し、藩の施設である御蔵や御茶屋が設置されていて、経済・交通の中心地である。こうした事情から、大橋村に国作手永の役所が置かれていた(第42図)。
 節丸手永の役宅は節丸村に、平嶋手永の役宅は今井村に置かれていた。
 

第42図 大橋村にあった国作手永役宅所在地の図(部分)(行橋市教育委員会所蔵)