豊津町域の大部を占める国作手永の初見は、元和八年(一六二二)である。惣庄屋は国作村居住の国作善七郎である。国作手永は明治維新まで連綿と続いた。その間、判明する大庄屋を列挙すると、次のとおりである。カッコ内は初見の年号を示した。
国作善七郎(元和八)・国作九郎左衛門(元禄七)・国作兵左衛門(延享四)・国作弁内(宝暦六)・国作正内(宝暦十一)・国作傅蔵(安永二)・国作九郎左衛門(天明七)・国作(山本)弥左衛門(寛政元)・国作九郎左衛門(寛政八)・国作傅蔵(寛政九)・国作藤右衛門(寛政十一)・国作貞右衛門(寛政十一)・国作健兵衛(文化二)・国作宗右衛門(文化四)・国作甚左衛門(文化十)・国作助作(文政三)・国作(森)貞右衛門(文政三)・国作元左衛門(弘化二)・国作治部平(嘉永二)・国作(森)只助(嘉永四)・国作甚左衛門(嘉永五)・国作(森)磯七(安政二)・国作良平(文久元)・国作(森)昇右衛門(元治元)・国作(白石)治右衛門(耕三)(慶応三)らが確認できる。