節丸手永は、細川期の伊良原手永が、小笠原氏が入国してから行った手永の編成替えによって成立した。
伊良原手永は、細川氏が入国して、下伊良原村の白川又七郎(のち孫兵衛)が惣庄屋に任命され、伊良原手永が成立した。以後孫兵衛の子次郎兵衛、その子重左衛門のとき小笠原氏が入封、重左衛門は引き続いて大庄屋を務め、節丸村に役宅を構えて在勤した。このときから、伊良原手永を節丸手永と改称した。重左衛門はその子治郎兵衛に家督を譲り、二男三之丞(のち十左衛門)を連れて節丸村に移住して、十左衛門を跡役にした。十左衛門のあとは、兄治郎兵衛の子治郎兵衛、次を治兵衛、そして治郎兵衛―兵左衛門―治右衛門―治部平と、代々節丸手永大庄屋を世襲した(『京都郡誌』)。
また、「文久二年戌秋冬六郡より書上」(友石文書)によると、細川氏の入国後、白川孫兵衛が初めて惣庄屋役になり、そのあと、治兵衛・十左衛門と世襲し、十左衛門のとき小笠原氏が入国、子の十左衛門のとき節丸村に役宅を構えて、天和三年(一六八三)に退役した、となっている。ここでは白川氏の大庄屋世襲は四代となっている。その後の節丸手永は、転勤による大庄屋が務めた。
判明する大庄屋を列挙すると、次のとおりである。カッコ内は初見の年号を示した。
伊良原(白川)孫兵衛・同二郎兵衛(元和八)・同重左衛門・同十左衛門・同治右衛門・同治部平・節丸助右衛門(元禄七)・節丸半助(宝暦十一)・節丸喜左衛門(安永二)・節丸順平(安永六)・節丸六兵衛(安永七)・節丸久平(天明七)・節丸(進)順平(寛政元)・節丸(進)七左衛門(文化二)・節丸弥八郎(覚右衛門)(文化四)・節丸(進)七左衛門(文政九)・節丸(進)源之助(文政十一)・節丸元左衛門(天保元)・節丸(畑)一作(天保四)・節丸(友枝)多左衛門(天保七)・節丸(藤河)長左衛門(天保八)・節丸(進)礼蔵(弘化二)・節丸九郎左衛門(弘化四)・節丸(勢嶋)六左衛門(嘉永二)・節丸(永沼)仁助(嘉永三)・節丸(秋光)良平(嘉永四)・節丸(永沼)仁助(嘉永五)・節丸(白川)仁左衛門(安政元)・節丸(筒井)武右衛門(安政四)・節丸(藤河)古助(万延元)・節丸(勢嶋)仁右衛門(二作)(慶応二)らが確認できる。