平嶋手永は、細川期には見えず、小笠原氏が入国してから手永の編成替えが行われたときに成立したと考えられる。判明する大庄屋を列挙すると、次のとおりである。カッコ内は初見の年号を示した。
平嶋市郎左衛門(元禄七)・平嶋甚左衛門(延享四)・平嶋十右衛門(宝暦六)・平嶋林内(宝暦十一)・平嶋貞五郎(宝暦十一)・平嶋甚左衛門(安永二)・平嶋林内(天明七)・平嶋代七(寛政元)・平嶋磯七(甚左衛門)(寛政七)・平嶋藤右衛門(寛政十一)・平嶋甚左衛門(寛政十二)・平嶋九郎左衛門(文化二)・平嶋宗右衛門(文化三)・平嶋円蔵(文化四)・平嶋甚左衛門(文化五)・平嶋定兵衛(文化十)・平嶋寛左衛門(文化十二)・平嶋三左衛門(文政五)・平嶋勝左衛門(文政七)・平嶋半左衛門(天保五)・平嶋勘之助(天保七)・平嶋寛左衛門(天保十)・平嶋雄太郎(弘化元)・平嶋貞右衛門(嘉永元)・平嶋(秋光)良平(嘉永五)・平嶋悦次郎(壮左衛門)(文久元)・平嶋甚兵衛(元治元)・平嶋甚左衛門(精一)(慶応二)らが確認できる。