豊津町域の国作手永内の一〇カ村、節丸手永内の四カ村、平嶋手永内の二カ村、合わせて一六カ村の庄屋は巻末資料(1298ページ)のとおりである。また、藩営事業で、天保年間(一八三〇―四四)に開発された錦原(のち豊津)には、郡内の徳人らが錦原に出店を構え、町家を建て、追々発展して在郷町の様相を為すに至って、庄屋同様の世話方と呼ばれる者を置いていた。「国作手永大庄屋日記」嘉永三年(一八五〇)十二月の記に、「錦原の義は、近来新開の場所にて、庄屋同様の心得をもって相勤候様、私え世話方仰せ付けられ候」と、錦原世話方長平が差し出した文書がある。これを見ると、錦原は村庄屋の支配を離れ、大橋町庄屋のような性格を持った世話方が、錦原のまとめ役として置かれていたのであろう。