選挙の執行は、村々へ選挙日の前日に、当日外出のないように触れ置いて、選挙当日郡目付一人、郡手代一人が入札箱を持って、一日で村々を回村して入札させた。選挙は立候補制でなく、住民が適任者と思う者を誰(だれ)でも自由に選ぶ選挙であった。
大庄屋役の選挙は、手永を総括する重要な役職であることを周知させるために「大庄屋役は一手永の長にして、大事の役柄に候間、相勤候器量の者入札いたすべし」と、大庄屋の役職を認識させるための書き付けを、入札箱とともに持って巡回した。選挙は、「以前勤め候者にても、または農兵・譜代・儒医の内にても、その器に当たり候者は、誰にても苦しからず」と、自分が適任者と思う者を自由に選挙することが出来た。被選挙人は一人に限定せず、大庄屋役に適任と思う者を二人でも三人でも選挙出来た。また、適任者が手永内にいなければ、他手永の者でも人物次第で差し支えないとされた。
選挙権は、大庄屋・子供役・庄屋・農兵・方頭・徳人には一枚ずつ、平百姓は五人組で話し合いの上で一枚の投票であった。ただし、選挙人の村と名前を記入させた(第43図参照)。
第43図
子供役の選挙要項は、大庄屋の選挙に準じたものであった。
庄屋の選挙は、大庄屋・子供役の選挙要項に凖じたが、選挙は村内の者のほか、その手永の大庄屋・子供役・手代の手永三役には、選挙権が与えられた。村民は五人組で話し合いの上での投票でも、人別に投票してもよいとされた(「長井手永大庄屋日記」)。
この選挙制度によって選ばれたのかどうか確認できないが、同年十一月には庄屋の入れ替えが行われている。しかし、その顔ぶれは以前の人物とだいたい同じである。住民は、繁雑な村役人の職務は経験者でなければ務まらないと判断したのか、替わっても生活は同じとあきらめていたのか、長い間上からの指図だけで動いてきたことから、選挙を理解できなかったのかもしれない。
小倉藩では、翌四年三月に郡政の改革が行われた。改革に伴ってこの選挙制度も、わずか五カ月間で廃止された。