明治四年九月五日には、「仲津郡庄屋中、当分戸籍取調掛申し付け候」(「長井手永大庄屋日記」)と、庄屋が戸籍編成掛を命じられた。これは同年四月に、四民平等の原則に基づいて、これまでの身分別記載方式から、住居主義の戸籍法が布告されたのに伴い、宗門改人別帳など戸籍に関する帳簿を備えている庄屋に、戸籍の作成を担当させたのである。戸籍は翌五年二月から登録を開始した。
四年十一月には府県の統廃合が行われ、豊津県・千束県・中津県の三県が統合されて、小倉県となった。中央政府から伊東武重が参事として着任、同五年一月に県庁を小倉に置き、企救・田川・京都・仲津・築城の五郡は本庁が、上毛・下毛の二郡は千束支庁が、宇佐郡は四日市支庁が管轄下に置いた。