解題・説明
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この絵図は、宝暦14年(1764)に百間中島村の名主九郎兵衛により作成されたものである。百間7ヶ村(百間本村、百間西原組、百間金谷原組、百間東村、百間中村、百間中島村、蓮谷村)と須賀村を合わせた範囲の絵図であるが、内容等から百間中島村と百間中村(以前は百間西村)、須賀村(百間須賀村ともいう)を中心とした絵図であることが分かる。この3ヶ村は、いずれも旗本池田氏の知行地で、一体的に把握されており百間三ヶ村と呼ばれていた。絵図の内容は、白色が新田を、黄色が田地を、薄茶色が畑地や屋敷地を、小豆色が山林や秣場(まぐさば)を表しており、畑が非常に多いことが分かる。新田は、南側に下ノ谷新田、その北に逆井新田、その北に笠原沼新田が確認でき、この段階では、逆井新田の西側の百間四カ村請新田が秣場となっている。古利根川の縁辺にも流作場(りゅうさくば)新田があるが、古利根川には、「戌年の出水以後騎西領大落堀の名目となった」と記されており、寛保2年(1742)の水害で騎西領の排水堀となったことが分かる。一方、清地橋は「古来11間の長さで幸手領組合、百間領組合で5軒半ずつ負担していたが、御普請願に伴う幕府役人の巡検・吟味の結果、橋中央部2間を百間村が負担することとなり、橋の長さが13間となった」と記されている。また、清地橋から杉戸宿へはクランク(桝形)を通らないと宿場に入ることができなかった。他には、古利根川の下流の中州島(川端)付近では古利根川が東西2筋に分かれていることが確認できるが、後に西側の河川は廃川となり新田となっている。この他、西原付近では「中島村分新屋敷」があり、元和5年(1619)に検地を行うことができない場所であったことが分かる。また、笠原沼東側の小沼に掛渡井があったことや西光院に多くの塔頭があることも分かる。須賀村については、島に須賀村内八左衛門新田、辰新田には須賀村新田が確認でき、寺社は長福寺、金剛寺、真蔵院の他、浅間社、日光権現社、身代社も確認できる。この当時から身代社に池があったことも分かる。金剛寺付近では水路がコ字状に配置されているため、中世の城館があった可能性もある。宮代町指定文化財(岩崎家文書)。(参考引用:宮代町郷土資料館 平成22年10月『特別展 江戸時代の絵図 図録』)
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