解題・説明
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幸手領とは、北は鷲宮・栗橋(いずれも久喜市)から幸手、杉戸、小渕(春日部市)までの範囲で、戦国時代古河公方の家臣であった幸手一色氏と関係の深い範囲と言われている。この絵図は、延宝年間(1673~1681)に製作された絵図を明治4年(1871)に写したものと記されているが、江戸時代前期の情報がよく残されている。幸手領は、東を江戸川・庄内古川、北側を島川・権現堂川、西側を古利根川で画されており、南側については明瞭な境は確認できないが、元々は庄内古川が八丁目、樋籠(いずれも春日部市)付近で古利根川に流れ込むことで画されていたと推定される。幸手宿は田宮町と記され、宿場の家並みが描かれ、北側の枡形も確認できる。その西側には牛村と記されている場所があるが、ここは幸手城の跡で周囲が堀で囲まれており、この頃までは城郭の一部が残されていたことが分かる。八甫村(久喜市)の北側には、羽生領悪水落堀と記される旧利根川の島川が描かれている。中央付近の平須賀(幸手市)付近には、旧利根川の廃川が確認できる。杉戸宿では新海道から繋がる北側の枡形(横町)が確認できるが、古来の日光海道と伝えられる上杉戸、下高野(いずれも杉戸町)方面への道も断続的ながら確認できる。北東側には後の大島新田である安戸沼も記載されている。大輪(久喜市)付近や下高野付近には、林が描かれ御林があったことが分かり、いずれも砂丘地帯であることは興味深い。(参考引用:宮代町郷土資料館 平成22年10月『特別展 江戸時代の絵図 図録』)
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