解題・説明
|
笠原沼は、寛永2年(1625)頃、幕府の地方奉行であった大河内金兵衛久綱により、百間村の用水源である溜沼として造成された。この絵図は、記載されている領主等の情報や寛文12年(1672)の水争いの裁許状との関係から、万治2年(1659)頃の絵図と推定され、記録として確認できる最も古い笠原沼をめぐる水争いである。姫宮落堀に設けられた2ヶ所の用水堰の件で、笠原沼の水を用水として利用していた下郷の百間村を上郷の笠原沼周辺の須賀村や久米原村などが訴えたものと推定される。絵図を見ると、元和5年(1619)の百間領5000石の検地の際に田んぼとして把握された笠原沼北側の「字五丁」付近に水が被っているのが分かる。ここは「溜沼」となった際に田んぼから荒地となった場所である。このことからも、笠原沼は自然の沼ではなく人工的に造成した沼であることが分かる。また、笠原沼が「ため沼」と記載されており、上の土手、下の土手(横手堤)や姫宮落堀に掛かる堰が2箇所描かれている。笠原沼へ流れ込む排水堀として金兵衛堀(爪田谷落堀)や野牛高岩落堀が描かれ、笠原沼から流れ出る堀として姫宮堀(笠原沼古落堀)、笠原沼の南側には現在の内郷用水の一部と推定される堀が描かれている。さらに、用水堰の場所は争論となった場所であるためか、穴が開いていることも興味深い。
|