解題・説明
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この絵図は、記載されている内容等から、寛延2年(1749年)から宝暦3年(1753年)に作成されたと推定される。百間村は、元禄8年(1695年)に百間村と百間東村、百間西村(後の百間中村)、百間中島村の4村に分村し、更に百間村は支配の関係から事実上、百間本村、百間西原組、百間金谷原組の3村に分村する。この絵図は、百間本村の名主宅で発見されたもので、内容も百間本村を中心としたもので、黄色が百間本村の田地、灰色が百間本村の畑地及び屋敷地、赤が道、水色が川・沼、他領との入会地は白で描かれている。池田備中守知行所が百間中村及び百間中島村を、永井十左衛門知行所が百間東村を、松波甚兵衛知行所が百間金谷原組を、森川下総守知行所が百間西原組を示している。百間本村の土地は、源太宿(山崎)や川島、切戸(いずれも百間)にある程度まとまっているが、中須(中島)や西原、姫宮、平島(逆井)、十殿(山崎)等にも飛び地が確認できる。村絵図は古い情報の上に新しい情報が記載されるため、年代の新しい村絵図の中にも古い情報が残されていることがあり、この絵図にも古い情報が散見でき、この時代、笠原沼では既に新田開発が行われ、絵図にも高階伝次郎御支配所笠原沼新田と記載されているが、そのベースとなる絵は笠原沼時代の沼地が水色で描かれており、沼口の古落堀の様子もわかる。この他、姫宮神社に御林があったことも分かるが、百間本村とあまり関係のなかった西光院付近や古利根川が2本に分流していた中洲島(川端付近)については、省略されている。宮代町指定文化財(折原家文書)。(参考引用:宮代町郷土資料館 平成22年10月『特別展 江戸時代の絵図 図録』)
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