解題・説明
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【判型】大本3巻3冊。 【作者】長谷川妙躰(豊・筆海子)書。 【年代等】正徳3年(1713)初刊。江戸中期(享保以降)再刊。[大阪]渋川与市ほか板。 【概要】分類「往来物(女子用)」。時候挨拶の手紙や家族の近況を知らせる手紙など、種々の例文を散らし書きにした女筆手本。例文が分類整理されていないなど非実用的で、歌語を含む文体や奉書様式の書法の学習を旨とする。上巻は、「子の日」(新春)、「杜若」(初夏)の時候の手紙文に始まり、次いで、つれない相手を恨む内容の文、さらに物柔らかに僻んだ心を直せと諌める手紙文で終え、巻末に『古今』『新古今』からの和歌2首を掲げる。中巻は、初秋から冬にかけての情緒的な消息文で、「七夕」を題材とする前半は「星合の空」「梶の葉」などの歌語を配し、神無月を経て、「人めも草もかるるばかり」「野辺の冬草」「冬草のうへにふりしく白雪」と冬に至り、末尾に『和漢朗詠集』から抄録した和歌を掲げる。下巻は、家族が息災であることを詳述した後で、京都の名所旧跡と年中行事等を紹介する。各巻表紙見返に口絵を掲げるが、うち上巻見返の挿絵は妙躰の肖像画と思われる。 【備考】下巻末尾に「世に長谷川氏女筆と名付あらはせるもの数多ありといへども、筆海子の号なきものは真筆にあらざる者也」と記す。真贋の区別を強調し、類書を排斥するこのような断り書きをしつつ、己の署名の下には朱印も押す(個々の板本にそれぞれ押印)。板行された女性の著作では特異な例であり、当時、「筆海子」を名乗った女筆手本が巷間に出回っていたことを物語る。妙躰の筆跡は従来の女筆手本には見られなかった衝撃的なものであり、たちまち京中の評判になったらしい。宝永元年(1704)刊『みちしば』跋文にも、『しのすゝき』が京都でブームになっていた事実を伝える。そんな折に、恐らくは妙躰の評判にかねてから注目していた京都書肆の要望に応えて、彼女は次に『わかみどり』を執筆、以後名声はますます高まり、複数の板元から多くの女筆手本を出版することとなった。さらに享保期には妙躰まがいの偽書が横行したため、ついに享保17年(1732)9月、一族の長谷川道柳が京都本屋仲間に、妙躰流女筆手本の版下改めを願い出ており(『京都書林仲間』第5冊「上組済帳標目」)、その翌年からは奥付に「筆海子の号なきものは真筆にあらざる者也」の一文が付されることになった。この時期は女筆手本出版のピークで、平均すれば毎年のように新しい手本が出版され、近世を通じて最も盛況だった。この頃に妙躰手本の類似品が出回り、妙躰手本の出版をめぐる書肆間の競争も激化したらしい。(小泉吉永 記)
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