解題・説明
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【判型】大本1冊。 【作者】大橋重政(長左衛門)書。 【年代等】寛文8年(1668)8月刊。[京都か]左兵衛(とらや左兵衛か)板。 【概要】分類「往来物(社会科)」。寛永12年(1635)6月21日公布の『武家諸法度』を認めた大橋流書道手本。寛永12年『武家諸法度』の原文は返り点・送り仮名(片仮名)付きの漢文体だが、本往来では、所々、片仮名による読み仮名を加えた本文を大字・4行・付訓の手本用に改編する。『武家諸法度』は幕府の基本法典の1つで、豊臣政権が滅亡した元和元年(1615)7月7日、徳川家康が諸大名に公布したのが初令。「一、文武弓馬之道専可相嗜事」以下の13カ条から成り、主として大名を対象に、品行方正、反逆・殺害人の追放、居城修理の申告、私婚の禁止、参勤の作法、衣服・乗輿の制などを定めたものだった。「武家諸法度」は、その後、元和3年6月、寛永6年(1629)9月に改訂され、同12年6月に大幅改訂されたのが寛永12年法度である。全19カ条から成り、特に大名の在江戸(参勤)交代の義務、城郭の新築禁止・修理の届出制、私的結集と私闘の禁、道路交通の保証、500石以上の大船建造停止、寺社領の固定などの規定を新たに設け、最後に「一、万事如江戸之法度、於国々所々可遵行之事」と締め括る。本往来が、4代・家綱の治世下で改訂法度が発布された寛文3年(1663)5月より5年後の同8年(1668)年8月の刊行にもかかわらず、寛永12年法度を底本にするのは、同法度がその後の『武家諸法度』の定形となったためであろう。 【備考】大橋重政は江戸前期の武士・書家であり、尊純法親王に書を学び、幕府の右筆吟味役も務めたが、書に優れ、大橋流として一派をなした。(小泉吉永 記)
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