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守谷市/守谷市デジタルミュージアム

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守谷城と下総相馬氏 (守谷城の縄張)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城の縄張 戦国時代の守谷城は「城下地区」・「城内地区」・「城山地区」の三つの地区で構成されている,守谷城地形図(『守谷城址』(守谷町教育委員会)付図13に彩色・加筆・水色部は当時の内海) 「城下地区,④「和田の出口」守谷小学校の裏手、南東隅に近年まで大きな榎があり、当時の守谷城の威勢を謳った早歌が今に,永禄11年(1568)頃の守谷城(守谷市観光協会提供) ⑥「清水門」の跡は市道郷州沼崎線を越えた,下の図は『守谷城址』が清水門付近の一部と推定としている概念図を彩色して加筆しました。 / 守谷城の縄張
守谷城と下総相馬氏 (守谷城の位置)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城の位置 守谷城の現在地は茨城県守谷市本町(ほんちょう)で、常陸国と下総国の国境である小貝川南端 / 守谷城の位置
守谷城と下総相馬氏 (守谷城址の遺構)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城址の遺構 掘立柱建物跡(古墳時代中期の竪穴住居跡・戦国時代~江戸時代初期の掘立式建物跡) 遺物,それに対して守谷城址の出土数三十一発の中、鉛玉が十九発、鉄玉が十二発です。,出土数の少なさから天正十八年の「小田原合戦」時、合戦はなく守谷城は無血開城し、豊臣方の浅野長政・木村重茲 / 守谷城址の遺構
守谷城と下総相馬氏 (七、守谷城の今昔)

守谷城と下総相馬氏 / 七、守谷城の今昔 写真は大正中期。「守谷小学校が移転される前、大手門址前の二本松。,守谷城址の二本松・大手門付近 (『守谷わがふるさと』守谷町)  鎌倉時代の奥州合戦から戦国時代,守谷城址は素朴な相馬要害、永禄十一年(一五六八)の新しい守谷城の誕生、小田原合戦での豊臣方の接収、江戸初期 / 七、守谷城の今昔
守谷城と下総相馬氏 (守谷城進上)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城進上 臼井から戻った一年後、治胤には聞き捨てならぬ機密情報が飛び込んで来ました。,治胤は和睦の条件として守谷城進上を約束しました。,直ちに守谷城は北条方へ引き渡され、早くも七月には小田原勢が守谷城に入城、八月には義氏側近の芳春院周興(,の豊前山城守(基頼カ)ともども、守谷城の現地視察に訪れた可能性があります。,義氏は古河城へ入城、守谷城に詰めていた北条勢は義氏の移座までには退城したと思われます。 / 守谷城進上
守谷城と下総相馬氏 (三、守谷城の築城者)

守谷城と下総相馬氏 / 三、守谷城の築城者 守谷城(相馬要害)は、一説に拠ると、鎌倉時代の初期、源頼朝の旗揚げに合力した千葉常胤,守谷城の縄張を検討すると、その上限は鎌倉時代の要件を備えております。,には、「下総相馬氏が守谷城を本拠地としたのは室町時代一五世紀初頭と思われる。」,相馬家の第八代相馬胤忠が、初代の守谷城主の可能性があります。  ,胤宗が初代守谷城主だった可能性も否定できません。 / 三、守谷城の築城者
守谷城と下総相馬氏 (守谷城址の地理的環境)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城址の地理的環境 守谷城址は、守谷市本町の字「城山」・「城内」および「城下町」に所在します。,守谷城址(守谷市本町) / 守谷城址の地理的環境
守谷城と下総相馬氏 (守谷城の歴史的環境)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城の歴史的環境 千葉常胤(つねたね)の二男である師常(もろつね)は、鎌倉時代の初期、源頼朝書状に,たねうじ)は「下総相馬氏」といわれ以降、南北朝の動乱などの幾多の戦乱を経て二十代治胤(はるたね)まで守谷城 / 守谷城の歴史的環境
守谷城と下総相馬氏 (六、守谷城と周辺の合戦)

守谷城と下総相馬氏 / 六、守谷城と周辺の合戦 守谷城はその周辺を高野城・高井城・筒戸城・菅生城・布施城・大木城などの支城で / 六、守谷城と周辺の合戦
守谷城と下総相馬氏 (守谷城跡の発掘調査の時期)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城跡の発掘調査の時期 平成二年(一九九〇)八月、「城内遺跡・法花坊遺跡」 守谷東遺跡発掘調査会,平成八年(一九九六)三月、「守谷城址」 守谷町教育委員会 平成十三年(二〇〇一)八月、「城内遺跡・清水門跡 / 守谷城跡の発掘調査の時期
守谷城と下総相馬氏 (守谷城の名称は相馬要害・将門城)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城の名称は相馬要害・将門城 守谷城の呼び名は、時代の変遷とともに変わってきました。,戦国時代では、関宿城(野田市関宿)の梁田晴助(やなだはるすけ)は守谷城のことを「相馬要害(ようがい)(,江戸時代、歌舞伎『忍夜恋曲者(しのぶよるこいはくせもの)』(通称「将門」)を始めとする著作物は守谷城を,現在「守谷城址」が正式名称になっています(高梨輝憲著『広報もりや』第三〇三号平成元年九月)。 / 守谷城の名称は相馬要害・将門城
守谷城と下総相馬氏 (五、相馬要害から新守谷城の誕生)

守谷城と下総相馬氏 / 五、相馬要害から新守谷城の誕生 永禄九年(一五六六)三月、上杉謙信は下総臼井城(佐倉市)の攻略に大敗,守谷城主相馬治胤は、この様な状況に加えて簗田晴助が北条氏政と古河城を提供する替りに守谷城の領有を密約したとの,情報を得て、直ちに、公方足利義氏の許へ長老を遣わして和議を願い出て、守谷城を義氏に進上する事を条件として,詳しくは「守谷城進上」(p.164)で述べますが、早くも七月には北条方遠山衆の兵が入り、八月には公方義氏,相馬要害から拡張強化された守谷城の誕生です。 / 五、相馬要害から新守谷城の誕生
守谷城と下総相馬氏 (『守谷城と下総相馬氏』発刊のご挨拶)

守谷城と下総相馬氏 / 『守谷城と下総相馬氏』発刊のご挨拶 守谷市観光協会会長 作部屋義彦  当会は、守谷市の二つの貴重な,資産、自然資産である市街地隣接の大規模緑地と歴史資産である守谷城址の保全と利活用に深く関わっています。,隣接の守谷城址は、永らく放置され荒れ果てた状態でしたが、令和二年前半に環境整理を行いました。  ,取り纏められ、さらに戦国時代関東全域を巻込んだ北条氏の勢力拡張期の歴史の横軸を深く探求される過程で、守谷城,さらに、今よりも壮大な守谷城の姿を広範囲の世代に深く身近な気持で理解して頂きたいため、当時の守谷城の姿 / 『守谷城と下総相馬氏』発刊のご挨拶
守谷城と下総相馬氏 (追記 守谷城の北条氏普請の考察)

守谷城と下総相馬氏 / 追記 守谷城の北条氏普請の考察 古河公方足利義氏と北条氏政の二通の書状が守谷城の歴史を変えました。,永禄十年(一五六七)十一月四日、古河公方義氏より、豊前山城守宛に  「公方御座所としては相馬要害(守谷城,②永禄十一年(一五六八)五月、北条氏政は、守谷城と古河城の二城を普請堅固に申し付けて、小田原に帰陣したと,先に申したように、相馬(守谷城)は万事窮屈と思っています。その状況を氏康・氏政に相談して下さい。,「この度、御下知にしたがい古河城・守谷城の普請を堅固にするよう申し付けて小田原に帰陣しました。 / 追記 守谷城の北条氏普請の考察
守谷城と下総相馬氏 (北条流築城術により新守谷城)

守谷城と下総相馬氏 / 北条流築城術により新守谷城 今や関東の覇者、北条氏政の直々の号令の下、北条流築城の粋を極めての大規模,それでは北条氏政の面目をかけて誕生した守谷城について詳しく見ることにしましょう。 / 北条流築城術により新守谷城
守谷城と下総相馬氏 (戦国時代、守谷城は北条氏と反北条氏の境目の城)

守谷城と下総相馬氏 / 戦国時代、守谷城は北条氏と反北条氏の境目の城 小田原北条氏の初代早雲(そううん)(伊勢宗瑞(そうずい,戦国時代の真っ盛り、古河公方方の守谷城主相馬氏は、永禄年間には、越後の上杉謙信の越山に随い、謙信が去った,後は北条氏に和睦を申入れ、その条件として古河公方義氏に相馬要害(守谷城)を進上します。 / 戦国時代、守谷城は北条氏と反北条氏の境目の城
『守谷町史』 (守谷城)

守谷城 これは、守谷町の守谷城内に残存する。,守谷城外の河瀬弁天(将門が鬼門よけに祀る) / 守谷城
『守谷町史』 (師常と守谷城)

師常と守谷城 相馬御厨はその後常胤の子師常が引き継ぐことになる。,彼は父常胤から御厨を伝領されて、ここに守谷を拠点として、守谷城を構築することになる。,ここに始めて正式に、守谷及び守谷城が登場してくるのである。,師常のときに、はじめて守谷城が浮上してくる。,守谷城の本城 / 師常と守谷城
『守谷町史』 (守谷城の提供)

守谷城の提供 永禄三年(一五六〇)十二月、北條氏康は、その子氏政に譲り隠居した。,永禄九年(一五六六)八月、守谷城主相馬治胤は、その居城守谷城の提供を申し出たので、北條氏政は大いに喜び / 守谷城の提供
『守谷町史』 (戦国期の守谷城)

戦国期の守谷城 守谷城はその後、延宝四年(一六七六)の江戸時代の初期頃まで使用されて、後は空城になっており,別名相馬城ともいわれ、相馬氏の本城であり、相馬氏はこの城を拠点として筒戸城、高井城、菅生城、内守谷城、,守谷城主相馬治胤が、古河公方義氏に、その居城を提供して、公方の危機を救おうとしたことは有名な話である。 / 戦国期の守谷城
『守谷町史』 (守谷城勢揃のこと)

守谷城勢揃のこと 多賀谷軍は後退したが、しかし、再度南進を開始するおそれがあった。,これに対して北條氏堯は、北條勢力圏内の兵力を守谷城に集めて、総力をあげて多賀谷攻撃の計画をたてた。,これについては、『東国戦闘見聞私記』に記されており、また『守谷城勢揃之覚』という文書にも述べられてある,『守谷城勢揃之覚』という文書の真偽についてはいろいろと論議はされているが、ここでは、『守谷城勢揃之覚』,とにかく守谷城で、受付がこれを記帳するのに三昼夜、休息もせずに記入したということである。 / 守谷城勢揃のこと
『守谷町史』 (守谷城伝承の唄)

守谷城伝承の唄 現在、古老の間に唄が伝承されているが、これはその当時唄われたものではないかといわれている,とあるが、「和田の出口」は、守谷城内の二の丸の出口にあたる所ではないかと推定される。,守谷城和田出口の榎の木 / 守谷城伝承の唄
『守谷町史』 (守谷城は将門の城ではない)

守谷城は将門の城ではない 一般に守谷城は将門が築造したものといわれている。,更にまた、守谷城の築造の上限も、その様式から判断して、鎌倉時代以前にさかのぼることはできないのである。,また、将門が勧請したといわれる妙見八幡が、守谷城の近くに存在することをもって、城館もこの時点で築造されたものと,とにかく、守谷城を築造した最初の人は、相馬次郎師常であったと推定したい。,たしかに師常は頼朝の重臣として、鎌倉に居を持つことは当然のことであるが、常住の地はあくまでも守谷城であったものと / 守谷城は将門の城ではない
『改訂増補 守谷志』 (守谷城址)

守谷城址 守谷町の中央を基準に東北方舊守谷沼に突出して幾多の丘陵が互に聯結して一つの半島を成して居る,その丘陵中最も大なるもので、近世平台山又は城山の名を以て呼ばれて居る地が、即ち舊守谷城の中心で、之を本丸址,以上、二本松の大手先から初まつて三、四、五、連續せる丘陵によつて構成されてあるものが守谷城の規模の大樣 / 守谷城址
守谷城と下総相馬氏 (目次)

守谷城と下総相馬氏 / 目次 ごあいさつ               茨城県守谷市市長    松丸修久 『守谷城と下総相馬氏,・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61    一、守谷城の概況    ,二、近隣城館    三、守谷城の築城者    四、守谷城の存在価値     ・中世東国の「繋ぎの,の誕生     ・北条流築城     ・守谷城の縄張     ・鉄壁の守り    六、守谷城と,から抽出した合戦     ・戦記物からの紹介     ・『東国闘戦見聞私記』の世界    七、守谷城
守谷城と下総相馬氏 (はじめに)

守谷城と下総相馬氏 / そのなかでの人々の暮らしぶりを記録した多くの古文書が残され、そして平将門伝説や守谷城址など、豊かな歴史遺産,令和二年に守谷市観光協会の市民ボランティアによって守谷城址の環境が整理されました。,「もう一つ忘れられているのは、その後の守谷城主たちである。,本書では、守谷城を詳しく紹介すると共に、平将門の子孫を称した中世の守谷城主下総相馬氏、近世、旗本として,守谷城と下総相馬氏は、まだまだ世間には知られておりません。
守谷城と下総相馬氏 (ごあいさつ)

守谷城と下総相馬氏 / の歴史遺産として、守谷城址周辺を含めた自然環境を将来にわたって残していきたいと願い、歴史書『守谷城と下総相馬氏,本書によると、現在の守谷市のまちづくりは、北条氏四代氏政による守谷城の大増改築や行政・生活機能の平野部,にご尽力いただいた著者、及び守谷市観光協会の皆さまに対し、改めて御礼を申し上げるとともに、在りし日の守谷城,この歴史書とともに、守谷城址を訪れていただき、ふるさと守谷に一層の愛着と誇りを持っていただければ幸いに,守谷城址上空から中心市街地、駅方面を展望 守谷市第二次緑の基本計画重点緑化地区の木道
守谷城と下総相馬氏 (江戸時代の絵図)

守谷城と下総相馬氏 / 江戸時代の絵図 ①「守谷城古絵図(1)」は、江戸初期、五代守谷藩主酒井氏移封直後の廃城後の城郭図です,(地図上の文字を下段に拡大表示) 天和3年(1683)守谷城古絵図(1) 旧広島藩主浅野家から,ハ馬場ノ由 ⑤此口ヨリ馬ヤノ方下シ ⑥此本丸ヨリハ下シ ⑦惣法高四間計、惣曲輪、同地形 ②「守谷城古絵図,大変貴重で、客人をもてなす「会所」と「茶室」と「庭園」はセットになっており、守谷城も公方足利義氏の御座所
守谷市文化財マップ 解説 (⑭守谷城址(史跡))

昭48.9.5市指定 守谷城址(史跡) 源頼朝(みなもとのよりとも)の家人、千葉常胤(ちばつねたね / ⑭守谷城址(史跡)
守谷城と下総相馬氏 (⑦赤松宗旦(そうたん))

守谷城と下総相馬氏 / (『評伝赤松宗旦』川名登) 『利根川図志』には「守谷城全盛の時の童謡として、今猶傳ふる者あり。,守谷城の出口の一つで大きなエノキが最近まであったそうです。出口の下には舟着き場がありました。,茨城県参事(知事))など、多くの文人たちが守谷城址を訪れ、俳句や漢詩を詠っています。,なお、野村素軒は、守谷城大手門址の石碑「平将門城址」を揮毫しています(P.308参照)。
守谷城と下総相馬氏 (戦記物からの紹介)

守谷城と下総相馬氏 / 特に人名は地方史研究のトリガーとしての価値がありますので紙幅と労を厭わず、あえて両書から守谷城に関する,当時の守谷城は、北条氏政により、公方御座所として増改築されたばかりの堂々たる城郭でしたので守谷城へ全員集合,この守谷城集結場面は、守谷市民にとっては空前絶後のハイライトです。  ,守谷城に集まった武将たちを次に掲げます。  ,破竹の勢いの多賀谷勢も、守谷城を一目瞭然で合戦を避けて来たのでしょうか。
守谷城と下総相馬氏 (参考 関東の戦国大名と国衆の威信財(ステータスシンボル))

守谷城と下総相馬氏 / ③かわらけは、守谷城址からはロクロ式だけで、京都風の「手づくねかわらけ」は発掘されませんでした。,守谷城は江戸時代の古城図に、「御茶屋」が記載されています。,客人をもてなす「会所」と「茶室」と「庭園」はセットですので、守谷城も公方義氏の御座所として当然在ったと,守谷城からも、陶器・磁器が発掘されていますが、ここで論じているレベルではないでしょう。
守谷城と下総相馬氏 (鉄壁の守り)

守谷城と下総相馬氏 / 当時は曲輪の間は木橋や引橋がありましたが、守谷城が廃城になってから橋も朽ちてしまい、深い堀切りを下り、,江戸中期に斎藤喜内(源蔵吉高)の案内で守谷城を訪れた関宿藩士加藤左次兵衛は曲輪の間を移動するにあたって,守谷城は当時の北条氏の築城術を極めた最高の技術集団によって増改築されたと言っても過言ではありません。,結局、公方義氏は越相同盟の成立で古河城に入り守谷城には入城しませんでした。, 赤松宗旦著『利根川図志』は守谷城全盛の時に唄われた早歌「和田のでぐち」を紹介しています。
守谷城と下総相馬氏 (江戸時代の文芸作品)

守谷城と下総相馬氏 / これには、将門直系子孫を名乗った相馬氏の存在が大きく、「相馬氏の居城=守谷城」から、「将門の王城=守谷城址
もりやの自然誌 (フィールドガイド⑭ 北園森林公園・守谷城址)

フィールドガイド⑭ 北園森林公園・守谷城址  北相馬台地の北端にあり、地権者の御好意により町の野外文化施設,守谷城址に植えられていた松はほとんど枯れましたが、考古学的な発掘調査が行われた際に繁茂したアズマネザサ,森林公園駐車場(A)から森林公園(B)→NTT鉄塔(C)→五間堀(D)→守谷沼(E)→谷津水田(F)→守谷城址,守谷城址のマツはほとんど失われ、ウワミズザクラ・イヌザクラ・エゴノキ・シラカシなどの高木、ヒサカキ・サワフタギ,守谷城址では、アカシジミやオオミドリシジミ、ゴマダラチョウ・ヒオドシチョウといった森林性のチョウ類や、 / フィールドガイド⑭ 北園森林公園・守谷城址
守谷城と下総相馬氏 (清水門土塁断面モニュメント)

守谷城と下総相馬氏 / 永禄11年(1568)北条氏政による、大規模な守谷城の拡張工事は、北条氏の権威と財力と技術力があってはじめて
守谷城と下総相馬氏 (中世東国の「繋(つな)ぎの地域」の位置づけ)

守谷城と下総相馬氏 / さらに、永禄十年(一五六七)相馬治胤は、北条方との和睦のために守谷城を公方御座所として足利義氏に進上しています,一時的にせよ、義氏も庇護する北条氏政も守谷城を公方御座所として利用するつもりでした。,このことから従来殆ど歴史上無視されていた守谷城は、政治上、戦略上とも重要な位置にあったと見做すことが出来
守谷城と下総相馬氏 (江戸時代の守谷陣屋跡(江戸時代の古城図及び『関宿伝記』より地名をかかげます)。)

守谷城と下総相馬氏 /    4,800坪  陣屋敷+蔵屋敷 約800坪  {慶安4年(1651)の年貢割付状より算出} 守谷城
守谷城と下総相馬氏 (奥書)

守谷城と下総相馬氏 / 奥書 守谷城と下総相馬氏 発行日  令和4年(2022)2月2日 著 者  川嶋建      
守谷城と下総相馬氏 (十九代相馬整胤(まさたね)(一五四四~一五六六))

守谷城と下総相馬氏 / 氏康は、城主を亡くした守谷城を絶好な機会とみて襲わせたのでしょう。,この時、守谷城主はわずか四歳の整胤でした。  
守谷城と下総相馬氏 (十四代相馬胤實(たねざね)(生没年不詳))

守谷城と下総相馬氏 / 『一言主神社由来』によりますと、「長禄三年(一四五九)、当国の守谷城主相馬弾正胤廣候が、篤くこの神を崇信
守谷城と下総相馬氏 (⑥十方庵敬(じっぽうあんけいじゅん))

守谷城と下総相馬氏 / しかし母娘の歓待をうけて宿泊、守谷城址と西林寺を訪問し翌日、筑波山へ旅立ちました。   
『改訂増補 守谷志』 ((四)戰國時代の相馬氏 守谷城の地位)

(四)戰國時代の相馬氏 守谷城の地位 後醍醐天皇が英邁の天資を持して企て給ひし回天の偉業も、時利あらず,は、その地勢と、その要害と、最も安全なる居城として、守谷城の提供を申出でたので、北條氏政は大に喜び、近臣,守谷城がその規模を擴大にして修築の工を起されたのはこの時の事に屬すると思はれる。,らずして已んだのを見るや、關宿の梁田晴助は、古河が本來關宿の屬城であつたのを理由に、古河の代償として守谷城,又「多賀谷七代記」には、元龜から文祿頃にかけての守谷城主を相馬小次郎胤信とし、筒戸城主を相馬小次郎胤長 / (四)戰國時代の相馬氏 守谷城の地位
守谷城と下総相馬氏 (④清水濱臣(はまおみ))

守谷城と下総相馬氏 / 文化十二年(一八一五)水海道から守谷に入り、守谷城址を訪ねました。
守谷城と下総相馬氏 (奥州相馬氏の移転先)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷城と違い、小高城の築城時期は明解です。
守谷城と下総相馬氏 (相馬御厨内に在る妙見社)

守谷城と下総相馬氏 / 相馬御厨内に在る妙見社 神社名 所在地 特記事項 城館 妙見八幡社 守谷市本町 明治時代に焼失 守谷城
守谷城と下総相馬氏 (下総相馬氏関連年表)

守谷城と下総相馬氏 / 相馬一跡要害を簗田晴助に与えると書状で約束する 『簗田文書』 六月、 相馬治胤は公方足利義氏に、守谷城進上,で北条氏と和睦する 『国会古文書』 七月、 氏政、相馬之要害(守谷城)へ、江戸衆を派遣した 『芹沢文書,』 八月、 足利義氏の家臣芳春院周興、当城森谷之事(守谷城)に着城した 『豊前古文書』 一五六七,永禄十年 十一月、 足利義氏、守谷城が窮屈なので側近に北条氏と相談せよと書状 『豊前古文書』 十二月,『関八州古戦録』 一五七六 天正四年 十月、 天神城落城、氏堯、鹿子内(かなこない)の渡りを越え、守谷城
守谷城と下総相馬氏 (四代相馬胤村(たねむら)(?~一二七二))

守谷城と下総相馬氏 / 胤継には下総国相馬郡を使い、守谷城に居する、擁護山西林寺(ようごさんさいりんじ)の妙見堂及び観音堂を修造,妙見堂は守谷城の妙見曲輪に鎮座していましたが、江戸時代西林寺に移管されたのち、明治二十三年(一一九〇)
守谷城と下総相馬氏 (補記 胤継系の下総相馬氏)

守谷城と下総相馬氏 / このことから勘当された胤継は、守谷城近くの高野(こうや)城(守谷市高野)に居を構えたと思われます。,ここで、胤村系と胤継系が、守谷で共存出来るのかと考えますと、胤村系は、守谷城周辺の鬼怒・小貝川流域を支配,ここで、守谷市近辺にあります寺院の創立年代をピックアップしますと、文安二年(一四四五)岩井市の延命寺を守谷城主相馬氏
守谷城と下総相馬氏 (小田原合戦)

守谷城と下総相馬氏 / また、「関東八州諸城覚書」には、小田原城を含め、九十三城が記載されていますが、守谷城は記載されておりません,その後、守谷城を接収し、佐倉城は五月十八日開城しました。,ここで、守谷城近くの長龍寺所蔵の禁制(きんぜい)状を次ページに紹介いたします。
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