機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
守谷市/守谷市デジタルミュージアム
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 80件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
守谷の平将門伝説
(守谷の平将門伝説)
守谷
の
平将門
伝説 / 鈴塚(すづか) 10 古城沼(こじょうぬま) 11 寅薬師(とらやくし) 12
平将門
城址,(たいらのまさかどじょうし)(
守谷
城址) 13 妙見八幡社(みょうけんはちまんしゃ) 14 /
守谷
の
平将門
伝説
守谷城と下総相馬氏
(⑧ 平将門城趾碑(守谷小学校校庭))
守谷
城と下総相馬氏 / ⑧
平将門
城趾碑(
守谷
小学校校庭)
平将門
城趾(
守谷
市本町) 野村素軒書(素介・号泰軒) / ⑧
平将門
城趾碑(
守谷
小学校校庭)
守谷城と下総相馬氏
(平将門公の位牌について)
守谷
城と下総相馬氏 /
平将門
公の位牌について
平将門
の位牌に関して、江戸時代に書かれた「古記録」および明治から現代に至るまで,④『
平将門
故蹟考』(織田完之著、明治四十年刊。) ,大雄山海禅寺 北相馬郡
守谷
町高野 承平元年、
平将門
が
守谷
に偽都を築いた際、高野山に,長龍寺 北相馬郡
守谷
町
守谷
平将門
が
守谷
城主の時、造営したといい、将門の位牌,同書によると、出典は広瀬渉氏著の『
平将門
論』明治二七年刊。 /
平将門
公の位牌について
守谷城と下総相馬氏
(平将門の乱)
守谷
城と下総相馬氏 /
平将門
の乱
平将門
の父は、『家系図』で良将(よしもち)、『将門記』では良持(よしもち)とあり、どちらでも,「ヨシモチ」という(川尻秋生著『
平将門
記の乱』)、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によれば、従四位下鎮守府将軍,「
平将門
の乱」の発端は、将門の父の遺領を一族が掠(かす)め取ったことらしく、将門が大国玉(おおくにたま,わる将門伝説は、青森県から熊本県に至る三十九都府県に及び、その数は一五五五件もあります(村上春樹著『
平将門
,「
平将門
の乱」で生じた歴史的出来事は、「武士の誕生」の起点となったことです。 /
平将門
の乱
守谷城と下総相馬氏
(一、平将門とは)
守谷
城と下総相馬氏 / 一、
平将門
とは
平将門
は、桓武天皇の五代の孫に当たります。,
平将門
系図 / 一、
平将門
とは
『守谷町史』
(相馬氏と守谷)
『
守谷
町史』 / 相馬氏と
守谷
守谷
地方を中心として、相馬郡一帯を領治し、地域住民の生活に大きな影響を与えた領主は相馬氏,ところが、この系統は
平将門
を祖先とするものともいわれており、また、将門の叔父にあたる良文の系統であるともいわれている,これらの系統を調べながら、
守谷
の中世史の流れを一貫して捉えてみたいのである。,森と谷と(
守谷
城付近) / 相馬氏と
守谷
『史郷守谷』
(三 平將門がこと 謂ゆる相馬偽都の迹)
『史郷
守谷
』 / 三
平將門
がこと 謂ゆる相馬偽都の迹 相馬郡の僣都とか、相馬の偽宮とかいうことは、天慶の昔に
平将門
が,その相馬というのが即ち相馬郡の中樞である
守谷
に該当する。,それには相馬とか
守谷
とかの文字は記るされてないが、各地転戦を記るした中に、「本邑に帰る」とか、「本堵に,
平将門
は桓武天皇の後裔で上総介高望の孫に当り、鎮守府将軍良将の三男に生れ、相馬に居つて相馬小次郎と称した,即ち
守谷
帰住である。この間、豊田郡に居り、又新治郡にも居たことが記るされてある。 / 三
平將門
がこと 謂ゆる相馬偽都の迹
『守谷町史』
(守谷のあけぼの)
『
守谷
町史』 /
守谷
のあけぼの 中世は武家が政治上の実権を掌握した時代であるが、わが国を武家社会へと移行させる要因をつくった,それは、
平将門
の出現によって武家時代の端初が開かれたものであり、
守谷
の地も将門の勢力圏にはいったもののようである,将門の出現は、わが国の中世史のあけぼのを理解する上に、極めて重要な意味をもつもので、これによって
守谷
の,将門の出現によって
守谷
が中世社会になったわけではないが、
守谷
においては「中世のあけぼの」として特に取上 /
守谷
のあけぼの
守谷城と下総相馬氏
(守谷城の名称は相馬要害・将門城)
守谷
城と下総相馬氏 /
守谷
城の名称は相馬要害・将門城
守谷
城の呼び名は、時代の変遷とともに変わってきました。,明治になって「
平将門
城址」として記念碑も建ち最近の地図にも記載されています。,近代になり、昭和二十四年十二月、「茨城県百景選定について」と題する通達があり、
守谷
町は「
平将門
城址」を,ところが、主催者は勝手に「相馬城址」と変えたため、
守谷
町は町長名をもって、当初の名称たる「
平将門
城址」,の呼称はそのままに、さらに「
守谷
」の二字を冠するよう要望しました。 /
守谷
城の名称は相馬要害・将門城
『守谷町史』
(守谷の地名)
『
守谷
町史』 /
守谷
の地名
守谷
の地名のおこりについてみると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のとき、この地を,
守谷
の地名はこれに由来するという説と、また、
平将門
がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深くして守るに易き,地ということから、守るに易き谷、転じて「
守谷
」となったという説がある。,註(4)しかしながら、このことについて、はっきりしたことは判明しないが、その頃の
守谷
は森がうつそうと茂,これについて、縄文時代海進期の頃をみると、
守谷
台地の両側には太平洋の波が打寄せ、そしてそれは水海道の奥深 /
守谷
の地名
『守谷町史』
(守谷地方の生物)
『
守谷
町史』 /
守谷
地方の生物 茨城県の南部には、広く平らな常総の野が広がり、この豊かな土地に生息する生物たちは、北方系,温帯林(夏緑樹林) 暖帯林(照葉樹林) わが郷土
守谷
町にも、シイ、カシ、クロマツなどの,
守谷
駅を降り北へ約一キロメートルほど行くと松並木にかかる。,道の両側に胸高周囲一~二メートルの黒松が数十本立ち並び、植栽はおよそ二八〇年前といわれ、平安の昔、
平将門
,
守谷
の松並木 この松並木の東に、モミが点々と並び、永泉寺の参道に入る。 /
守谷
地方の生物
守谷城と下総相馬氏
(守谷の海禅寺の相馬氏の墓)
守谷
城と下総相馬氏 /
守谷
の海禅寺の相馬氏の墓 海禅寺には、要胤と次の信胤の墓が並んで建てられています。,相馬要胤の墓(左)と信胤の墓(右) 海禅寺(
守谷
市高野) 相馬信胤の墓 相馬要胤,墓石に「親王四十代後裔」とありますが、親王を自称した
平将門
から数えて信胤は四十代目に当たります。 /
守谷
の海禅寺の相馬氏の墓
守谷城と下総相馬氏
(三、守谷城の築城者)
守谷
城と下総相馬氏 / 三、
守谷
城の築城者
守谷
城(相馬要害)は、一説に拠ると、鎌倉時代の初期、源頼朝の旗揚げに合力した千葉常胤,『
守谷
町史』は、師常築城説を推定しています。,境内に相馬氏の墓地があり、その中の高台に
平将門
の五輪塔が鎮座しています。,持法院観音堂(柏市藤ケ谷)
平将門
五輪塔(柏市藤ケ谷 持法院) 師常が
守谷
に居なかったとすると,後で述べるように、
守谷
に二系統の相馬氏がいたと推測した場合、胤継は
守谷
市内の高野城に在城していた可能性 / 三、
守谷
城の築城者
守谷城と下総相馬氏
(『守谷城と下総相馬氏』発刊のご挨拶)
守谷
城と下総相馬氏 / 『
守谷
城と下総相馬氏』発刊のご挨拶
守谷
市観光協会会長 作部屋義彦 当会は、
守谷
市の二つの貴重な,築城時期を鎌倉期に比定し
平将門
につながる相馬氏の居城だったと云う歴史の縦軸だけではこの立派な中世城郭への,として発展し、後の近代
守谷
の中心市街地の礎(いしずえ)となりました。,「この地なかりせば、今の
守谷
市の中心市街地は存在しなかった」。,さらに、今よりも壮大な
守谷
城の姿を広範囲の世代に深く身近な気持で理解して頂きたいため、当時の
守谷
城の姿 / 『
守谷
城と下総相馬氏』発刊のご挨拶
『史郷守谷』
(九 江戸後半期の守谷 その文化的位置)
『史郷
守谷
』 / 九 江戸後半期の
守谷
その文化的位置 江戸時代の中頃以後、江戸とか京・大阪とかいうやうな都会地の文化,
守谷
地方など、江戸へ僅に十里という近い所にありながら、メツタに出かける人すらなかつた。,特に
守谷
は
平将門
の遺蹟として、古くは軍記物の上にも、近くは芝居や浄瑠璃の上にも、相馬の古御所などと唄はれて,それは帰府の後に書いた「総常日記」に
守谷
のことが書いてあるのからも知られる。,行く歳や空の名残を
守谷
まで の句は、暮に
守谷
に着いた時のものであり、 我が春も上々吉ぞ梅の花 / 九 江戸後半期の
守谷
その文化的位置
守谷城と下総相馬氏
(⑦赤松宗旦(そうたん))
守谷
城と下総相馬氏 / 『利根川図志』は、利根川流域の寺社・旧跡・風物を紹介した地誌で、安政五年(一八五八)の初版、巻二に、
平将門
旧祉,是ハ
守谷
平ノ将門時分のうたなりとぞ。」,」は
守谷
小学校 の裏手にあります。,下総国旧事考』の著者清宮秀堅(せいみやひでかた)、俳諧師白井鳥酔(ちょうすい)、漢詩の大沼沈山(ちんざん)、『
平将門
故蹟考,なお、野村素軒は、
守谷
城大手門址の石碑「
平将門
城址」を揮毫しています(P.308参照)。
守谷城と下総相馬氏
(将門の生年と没年)
守谷
城と下総相馬氏 / 平成二十五年(二〇一三)「岩井将門まつり」は、
平将門
公生誕一一一一年と銘打ちまして開催されましたが、坂東市,
平将門
像 (坂東市岩井ベルフォーレ)
守谷
地方では、将門の没年を、天慶三年正月二十二日とするのが,)は、『海禅寺縁起』によりますと承平元年(九三一)
平将門
の創建といいます。,
平将門
位牌(海禅寺蔵) 曹洞宗徳怡山長龍寺(とくいざんちょうりゅうじ)(
守谷
市百合ケ丘)は、『,
平将門
位牌(長龍寺蔵)
守谷城と下総相馬氏
(参考文献)
守谷
城と下総相馬氏 / 千葉開府記念祭協賛会編 崙書房出版 昭和五十年 「新版
平将門
東国,」 千野原靖方著 崙書房出版 平成十二年 「
平将門
伝説,基礎的研究」 川尻秋生著 塙書房 平成十五年 「
平将門
史実,」 千野原靖方著 崙書房出版 平成十六年 「
平将門
伝説,(東北地方)」 稲葉嶽男編集 松枝印刷 平成十九年 「
平将門
守谷城と下総相馬氏
(織田完之について)
守谷
城と下総相馬氏 / 織田完之について
平将門
の名を有名にしたのは、織田完之(鷹州)の功績に尽きます。,『将門記』の注釈書『国宝将門記 伝』や『
平将門
故蹟考』など多くの著作を残しました。,昭和五十九年(一九八四)には、再び本殿の江戸総鎮守神田明神(かんだみょうじん)(正式名神田神社)の「三の宮」
平将門
命,「
守谷
懐古」(律詞)鷹州(『
平将門
故蹟考』より) 相馬郡中尋御厨 至今守屋有称呼
『守谷町史』
(高野村)
『
守谷
町史』 / 更に本宿と称する集落は島嶼状集落より東に位置し、旧
守谷
町に接して平地に連なっているので、村内自らその地理的環境,承平年間(九三一―三七)、
平将門
関東の地を平らげ平新皇と称して京都の政権に対して東国政権を樹て、
守谷
に,そのとき将門は更に畿内における京都ゆかりの地を選び、これを偽都の周辺に移して
守谷
を京都に擬(なぞ)らえようとした,高野海禅寺 (
平将門
及び七人影武者の供養塔) 先に述べたように本宿の集落は旧
守谷
町に接し、しかも,現在、旧
守谷
町仲町に鎮座する八坂神社はもと本宿にあったものを、土岐山城守定政が領主として入部してからのち
守谷城と下総相馬氏
(はじめに)
守谷
城と下総相馬氏 / そのなかでの人々の暮らしぶりを記録した多くの古文書が残され、そして
平将門
伝説や
守谷
城址など、豊かな歴史遺産,
守谷
市の古文書は
守谷
町名主家の「斎藤家文書」、赤法花村の名主家「染谷家文書」、野木崎村名主家の「椎名家文書,また、江戸時代、
守谷
を有名にした「
平将門
伝説」は、
守谷
の歴史に欠かせませんので、将門が関わる各地の伝承,令和二年に
守谷
市観光協会の市民ボランティアによって
守谷
城址の環境が整理されました。,本書では、
守谷
城を詳しく紹介すると共に、
平将門
の子孫を称した中世の
守谷
城主下総相馬氏、近世、旗本として
『守谷のふるさとかるた』
(かわうそが むかしすんだか もりやぬま)
『
守谷
のふるさとかるた』 / かわうそが むかしすんだか もりやぬま 獺が 昔棲んだか
守谷
沼 読み札の音声を聞く 解説の音声,を聞く かつての
守谷
沼は満々と水を湛え、獺が生息していたと言われています。,近くには
平将門
が鬼門除けとして祀ったと言われる弁天様があり、獺弁天と名付けられています。,
守谷
沼は、
守谷
城址・北園森林公園と周辺の田園風景と共に
守谷
三十景に選ばれています。
守谷市文化財マップ 解説
(⑪海禅寺縁起(古文書))
守谷
市文化財マップ 解説 / 54.10.30市指定 海禅寺縁起(古文書) この縁起は寛文年間(1661~1672)、
守谷
一万石,の領主となった堀田備中守正俊(ほったびっちゅうのかみまさとし)が寄進したもので、
平将門
(たいらのまさかど,『
守谷
市文化財マップ』で位置を見る
守谷城と下総相馬氏
(目次)
守谷
城と下総相馬氏 / 目次 ごあいさつ 茨城県
守谷
市市長 松丸修久 『
守谷
城と下総相馬氏,』発刊のご挨拶
守谷
市観光協会会長 作部屋義彦 はじめに 第一章
平将門
と信田氏の伝承,・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 一、
平将門
の乱とは 二、信田系図,二、近隣城館 三、
守谷
城の築城者 四、
守谷
城の存在価値 ・中世東国の「繋ぎの,の今昔 ・
守谷
城領域図 ・江戸時代の絵図 ①天和三年「
守谷
古城図」 ②文化元年「
守谷
古城跡絵図
守谷城と下総相馬氏
(③三代守谷藩主土岐頼行(よりゆき)(一六〇八~一六八四))
守谷
城と下総相馬氏 / ③三代
守谷
藩主土岐頼行(よりゆき)(一六〇八~一六八四) 在任期間 元和五年(一六一九)~寛永五年(,この鰐口は、
守谷
市文化財(工芸物)に指定され、愛宕神社で保管されています。,土岐氏の
守谷
領一万石は、嫡男の勝長の一千石(相馬郡内
守谷
村)と併せ、移されたと考えます。,ここに、地元
守谷
を支配していたという史料が、三点遺されていますのでご紹介します。,一方、
平将門
の戒名は多々ありますが、柏市藤ケ谷の持法院(じほういん)にある
平将門
供養塔の戒名は「玄性院殿信陰宗卜大居士 / ③三代
守谷
藩主土岐頼行(よりゆき)(一六〇八~一六八四)
『守谷町史』
(鈴塚村)
『
守谷
町史』 / 鈴塚村 元来、
守谷
町附近には昔から
平将門
にまつわる伝説が多く残っている。,
平将門
がかつて京都にいたころ藤原純友と親交を結び、将来互いに志を得たれば東面相呼応して兵乱を起こすことを,その塚のある付近は住宅・都市整備公団が開発を行う「南
守谷
地区土地区画整理事業」の範囲に含まれたので、埋蔵文化財発掘調査
守谷市文化財マップ 解説
(⑫沼崎山畧縁起(古文書))
守谷
市文化財マップ 解説 / 平7.7.14市指定 沼崎山畧縁起(古文書) この縁起には、永泉寺が
平将門
(たいらのまさかど,『
守谷
市文化財マップ』で位置を見る
『守谷のふるさとかるた』
(みょうけんかく まさかどのゆめ かけめぐる)
『
守谷
のふるさとかるた』 / まさかどのゆめ かけめぐる 妙見郭 将門の夢 駆け巡る 読み札の音声を聞く 解説の音声を聞く 妙見郭は
守谷
城,全国的に有名な相馬野馬追は、
平将門
が軍事訓練として野生馬を敵兵に見立てて捕らえ、馬を神前に奉納したことに,かつては
守谷
城の妙見郭でも、神馬を奉納する儀式が行われていたかもしれません。
『改訂増補 守谷志』
(大雄山海禪寺)
『改訂増補
守谷
志』 / 緣起には、
平將門
の創建、夢窓國師の中興と記るして居る。,相馬氏の
守谷
在城の折は歸依最も厚く、江戸時代になつても旗下の相馬氏及奥州の相馬氏共に屢々參詣もあつたと,正俊は
守谷
在城の折に最も本寺に歸依の厚かつたものといふ。 ,下總國海禪寺緣起 下總國相馬郡大雄山海禪寺者、朱雀院承平元年
平將門
所創建也、以地藏爲本尊、傳稱聖武天皇神龜十五年大,聊記其大概以寄贈之 寬文四年甲辰之秋 從五品備中守堀田正俊
平將門
御影一尺五寸
『守谷町史』
(第一節 相馬氏の系譜)
『
守谷
町史』 / 第一節 相馬氏の系譜
守谷
の地は中世全般をとおして、代々相馬氏が領治していたところであった。,これについてみると、 相馬の先祖は将門か 先ず、相馬の先祖を、
平将門
にしていることである。
『守谷のふるさとかるた』
(しちにんの かげむしゃねむる かいぜんじ)
『
守谷
のふるさとかるた』 / る 海禅寺 読み札の音声を聞く 解説の音声を聞く 高野の海禅寺は承平年間(九三一~九三七)、
平将門
,が
守谷
に王城を建てた時に、京都になぞらえようと紀州高野山金剛峰寺をモデルに創建した寺と伝えられています
『守谷のふるさとかるた』
(たてたのは まさかどなりとの かいぜんじえんぎ)
『
守谷
のふるさとかるた』 / 海禅寺縁起 読み札の音声を聞く 解説の音声を聞く 海禅寺の縁起書は、寛文四年(一六六四)に
守谷
一万石,その縁起によると、海禅寺は
平将門
が承平元年(九三一)に創建した寺で、本尊の地蔵菩薩は行基の作だということです
『史郷守谷』
(目次)
『史郷
守谷
』 / 目次 一 大昔の
守谷
地方……………………………………………………………………一 早くからの,民族居住の地 二 相馬及
守谷
の地名…………………………………………………………………三 ,由来と変遷 三
平将門
がこと………………………………………………………………………五 ,荒廃 二 相馬師常とその後 三 東国の動乱と相馬氏の去就 四 相馬氏の末路と
守谷
開城,………………………………………………三〇 牧野氏から久世氏の治下 九 江戸後半期の
守谷
『守谷町史』
(乙子村)
『
守谷
町史』 / 乙子村 乙子村は利根川左岸の丘陵地で旧
守谷
町、小山村、現取手市戸頭に連なる平坦地が大部分を占め、わずかに,この乙子村もその地名についてはまた
平将門
の伝説がまつわっている。,それは承平年間、将門が
守谷
に城を築いたとき、万一の場合に備え、本城からこの地まで抜け穴を掘り、そこから
『改訂増補 守谷志』
(目次)
『改訂増補
守谷
志』 / 古墳と其の遺品 …五 多數古墳の散在、遺品の發掘、濁木舟の發掘 三 相馬郡及相馬郷並
守谷
,の地名 …八 郡名の初見、さうまの語原、相馬庄の稱、
守谷
の名稱 四
平將門
居館 事實と,將門異志、其實情、京都朝廷の狼狽、神佛祈願、將門最後、その本貫、假宮建設説、猿島郡と相馬郡、各書の記事、
守谷
城址,、
守谷
町物成、正信一時蟄居の處 八 酒井河内守忠擧所領 四代将軍の側近、宛然たる權要 …一〇〇,、享保元文頃の戸數人口、相馬三千石、猪鹿棲息、取手宿助郷問題、立澤入會地問題 一〇 江戸後半期の
守谷
『改訂増補 守谷志』
(一、守谷の地の廣く世の文筆の人の筆端に上りしもの)
『改訂増補
守谷
志』 / 一、
守谷
の地の廣く世の文筆の人の筆端に上りしもの
守谷
の地は
平將門
の遺跡などあるが爲めに、古來訪ね來,やり作りて安藏家に責入んとする所、雲天寺より露顯して、
守谷
の者ども長龍寺にたのみ入、西林寺兩寺 佗入 ,ことし甲戌(文化十一年)春三月、筑波山詣の頃、總陽相馬郡
守谷
の郷齊藤氏の宅に淹留す。,矢田郞海道を經て行けば
守谷
の里なり。德怡山長龍寺の門に淺野氏と木村氏とが花押せし古き制札あり。,裏に下總國
守谷
郷牛頭天王守護所大同元年丙戍九月二十一日神主吉信と鑄つけたり。 / 一、
守谷
の地の廣く世の文筆の人の筆端に上りしもの
『守谷町史』
(郷州原)
『
守谷
町史』 / 郷州原は古来から
平将門
の伝承にかかわりをもったところとして知られ、文化一四年(一八一七)に成立した国学者高田与清,この郷州海道という山道は、かつて
守谷
町愛宕より取手市上高井を経て藤代町山王に通ずる道路のことであろう。,しかし、なお下総の名族としての地位は失わず、本城たる
守谷
城を中心に筒戸(現、谷和原村)、高井(現、取手市,「相馬日記」にある「がうしう海道」は、そのころ
守谷
本城から高井支城へ通じる連絡路であったとも考えられる,実際、郷州原が開発されるまで、
守谷
附近の人びとが上高井、下高井を経て山王村(現、藤代町)方面へ行くのには
広報もりや 『郷土の歴史』
(昭和46年)
昭和46年 1月10日 発行
守谷
と近江商人 在東京 高梨輝憲読む 2月1日 発行
守谷
の先祖について,)農民の流動によって移住した住民四、居住の自由と特殊事情によって移住した住民読む 3月10日 発行
平将門
伝説, 高梨輝憲
守谷
が首都に?,本拠地は岩井
守谷
と
平将門
郷土史料を読む 5月10日 発行
守谷
古老談(その一話) 在東京 高梨輝憲天狗,を埋める読む 6月10日 発行
守谷
古老談(その二話)玉屋の離れ座敷 在東京 高梨輝憲読む 8月10
『守谷わがふるさと』
(町並みと自然)
『
守谷
わがふるさと』 / から上町方面を見る▶大正中期タバコの看板は
守谷
薬局のもの。,松並木▶昭和30年代清水地区から立沢、大山新田地区を経由して鹿小路(現水海道市)に続いていた松並木で「
平将門
,③
守谷
城址(し)の二本松付近▶大正中期現在地に
守谷
小学校が移転される前の二本松付近。, ①
守谷
沼▶大正中期ごろ圃(ほ)場整備が行われる以前の
守谷
沼の姿。,③圃(ほ)場整備後の
守谷
沼▶昭和46年圃場整備後の
守谷
沼。
守谷城と下総相馬氏
(『将門記』について)
守谷
城と下総相馬氏 / 『将門記』について 「
平将門
の乱」を実録的に記述した『将門記』ですが、写本は二つ伝えられ、「真福寺(,①に関しては、将門討死後に家来で
守谷
市大木の旧家、須賀(すか)家の須賀与作が討手を逃れて大木山蓮乗院の,「
平将門
の乱」の合戦年表 承平五年(九三五) 二月 将門、平真樹宅からの帰り道、野本(明野町)で、源護一族,十二月二十七日 信濃飛駅、
平将門
、興世王の謀反を報ず(将門略記)。,参考資料『将門記』・『日本紀略』・『古代東国史の:基礎的研究』 次ページに、「
平将門
の乱」合戦地図
守谷城と下総相馬氏
([口絵])
守谷
城と下総相馬氏 / ] 相馬當家系図(大阪市在住の個人蔵) 出典:千葉県立関宿城博物館 大利根博物館共同企画展 「
平将門
,伝将門の兜(茨城県個人所蔵) 出典:千葉県立関宿城博物館 大利根博物館共同企画展 「
平将門
、史実と,明治38年発行の『
平将門
故蹟考』には、東京に居住する相馬氏が将門の兜を伝え、妙見像を祀り相馬の系図を伝
守谷城と下総相馬氏
(古文書にみる「モリヤ」の地名)
守谷
城と下総相馬氏 / また、
平将門
がこの地を築いた時、丘が高く、谷が深かったので、守るに易い谷であるということから、守り易い,谷、転じて「
守谷
」となった説です。,現代の
守谷
市は、平成十四年(二〇〇二)に市制施行され、それまでは茨城県北相馬郡
守谷
町でした。 ,相馬改め
守谷
領と呼んでいます。,以降、元禄時代からは「
守谷
」が定着しました。
守谷城と下総相馬氏
(四代相馬胤村(たねむら)(?~一二七二))
守谷
城と下総相馬氏 / また、次郎兵衛尉胤継は、
守谷
近郊に居住していたらしく『神代本千葉系図』に、孫の胤親は、民部次郎・守屋と,澤は
守谷
市立澤の地名から採っています。行胤の子供たちは追筆されており養子と思われます。 ,千葉宗家が勘当事件を収拾した事と胤継系相馬氏が
守谷
に先住していた事を示唆しています。,元禄四年(一六九一)まで高野村に在りました擁護山西林寺(
守谷
市本町)は、創立延喜二年の古刹です。,「西林寺に
平将門
随身の妙見菩薩の堂有、観海といふ住僧にあひて、将門旧跡の事共尋ね聞く」。
守谷城と下総相馬氏
(② 下総国海禅寺縁起(海禅寺蔵)「巻子本」題 覚印周嘉禅師由緒写)
守谷
城と下総相馬氏 / ② 下総国海禅寺縁起(海禅寺蔵)「巻子本」題 覚印周嘉禅師由緒写
守谷
市指定文化財(古文書) 「巻子本, 書き下し文 下総国相馬郡大雄山海禅寺は朱雀院の承平元年、
平将門
,辨才天女を以て 現代文 下総国相馬郡大雄山海禅寺は朱雀(すざく)天皇の承 平元年(九三一)
平将門
,寛文四年甲辰之秋 従五品備中守堀田正俊
平将門
御影一尺五寸以て七百歳余に到る、謹んでこれを,寛文四年甲辰の秋 従五品(じゅごほん)備中守堀田正俊
平将門
御影一尺五寸以
『改訂増補 守谷志』
(隨處に觀る古墳と其の遺品)
『改訂増補
守谷
志』 / 上人塚などは就中名のあるものであつてその外、明治初年巳來發掘されたものには、
守谷
町九左衞門屋敷地内の椿塚,古墳ではないが、
守谷
の北東端、郷州原と稱する沼添への丘陵地からは相當廣範圍に亘つて祝部その他の上代土器破片,又
守谷
沼からは、明治初年以降二回までも獨木舟を發掘して居る。,第一回は明治五年
守谷
沼開拓の際であつて、
守谷
地先及同地々先の中間に當る沼底泥土の中から得られた。,するに隨つて、其の質の漸次脆弱となつたのを利し、爭つてその一片を毀ち取りて守護符となすものもあり、又は
平將門
守谷城と下総相馬氏
(相馬一家連名帳)
守谷
城と下総相馬氏 / 相馬一家連名帳 戦国時代の相馬治胤は、相馬一家の宗家として
守谷
城に居城し、高井城・筒戸城・菅生城・大木城,などに、一族近類を配置していましたが、ここに、「相馬一家連名帳」(『改定増補
守谷
志』の著者斎藤隆三氏の,『
守谷
志』より転載します。,遊座右京充廣直 天正九辛巳年 同国 泉勝坊光音 」 先ず、高野山の宝蔵院に、治胤は高祖
平将門
,高野聖たちが
守谷
に来て勧進したのでしょう。
『守谷町史』
(赤法花村)
『
守谷
町史』 / 赤法花村 赤法花は
守谷
町の東端、小貝川の沿岸台地に位置した集落である。,村の地名については明治三十年に刊行された細谷益見著『茨城県市町村沿革誌』によれば「承平年間
平将門
森屋ニ,とにかくこの集落は台地にあってその西裾は漫々とした古城沼(
守谷
沼)に臨み、
守谷
町側から見れば隔絶した境地,そしてこの赤法花は
守谷
町との間を隔てている古城沼を挾んで、時として大きな問題をひき起こすこともあった。,これは赤法花村のある古老から聞いた話であるが、昔、赤法花村と
守谷
町との間に古城沼をめぐって大きな事件が
守谷城と下総相馬氏
(下総相馬氏の支城)
守谷
城と下総相馬氏 / ふれあい道路の玉台橋(常総市内
守谷
)は越前守の奥方「お玉の方」が落城の時、追手に討たれた悲話が地名として,⑤高野(こうや)城(
守谷
市高野)は、別名「今城(いまんじょ)」とも呼ばれ、城の縄張りが極めて単純・素朴,築城者は不明ですが、『北相馬郡志』 は、天慶元年(九三八)、
平将門
が興世王(おきよのおう)のために築城,高野城祉(
守谷
市高野) ⑥大木城(
守谷
市大木)には、小字「木戸口(きどぐち)」や「馬乗場(うまのりば
もりやの自然誌
(フィールドガイド⑭ 北園森林公園・守谷城址)
フィールドガイド⑭ 北園森林公園・
守谷
城址 北相馬台地の北端にあり、地権者の御好意により町の野外文化施設,
守谷
城址に植えられていた松はほとんど枯れましたが、考古学的な発掘調査が行われた際に繁茂したアズマネザサ,(F)→
守谷
城址(G)→駐車場(A)と一周します。,
守谷
町でも北園周辺のマツ林でしかその声を聞くことはできません。,遺跡等:
守谷
城は
平將門
(十世紀)の城ではなく、十三世紀当初に相馬氏が築き、以後江戸初期の十七世紀まで約四百年間使用 / フィールドガイド⑭ 北園森林公園・
守谷
城址
『守谷わがふるさと』
(建物)
『
守谷
わがふるさと』 / ②農業倉庫▶大正12年
守谷
駅の西側に今もある石造りの倉庫。,大正十二年(一九二三)六月に
守谷
町信用販売購買組合の農業倉庫として建てられた。,④愛宕神社▶大正初期愛宕神社(愛宕)
平将門
による創建と伝えられている。, ①
守谷
郵便局▶大正中期
守谷
郵便局(仲町) 明治十一年(一八七八),②水海道銀行(現常陽銀行)
守谷
支店▶年不詳(『常陽銀行20年史』から)水海道銀行(現常陽銀行)
守谷
支店
/ 2ページ