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守谷市/守谷市デジタルミュージアム

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守谷城と下総相馬氏 (下総相馬氏と奥州相馬氏の分立)

守谷城と下総相馬氏 / 下総相馬氏と奥州相馬氏の分立 次に同行者ですが、『奥相志』に、「重胤公に従う陪扈(ばいご)の同族及び,この内で、胤氏弟の胤顕(たねあき)の子岡田胤盛(たねもり)は、先妻組の下総相馬氏系の筈ですが、移住組に,これでは、下総に残った相馬氏は、数える程しか居ないことになります。,有胤系相馬氏の記録として残されていませんので、動向は不明ですが、奥州相馬氏は一族纏まって奥州移住を否定,奥州移住時の数の優位性から、近世、奥州相馬氏は自らを嫡流家として、下総相馬氏を支流と呼んでいます。 / 下総相馬氏と奥州相馬氏の分立
守谷城と下総相馬氏 (胤村系相馬氏と胤継系相馬氏)

守谷城と下総相馬氏 / 胤村系相馬氏と胤継系相馬氏 十四世紀後半から十五世紀は、下総相馬氏の事績が多々記録されていますが、肝心,この間の出来事を良く読みますと、守谷には二系統の相馬氏が居り、公方方に忠節尽くす胤村系相馬氏と、千葉宗家,を大事にして、古河公方とも敵する胤継系相馬氏です。,胤村系相馬氏は守谷城を居城とし胤宗から二十代治胤まで相馬氏宗家として臨済宗妙心寺派海禅寺を菩提寺としています,ここで、胤継系相馬氏を採り上げて見たいと思います。 / 胤村系相馬氏と胤継系相馬氏
守谷城と下総相馬氏 (相馬氏系図の見直し)

守谷城と下総相馬氏 / 相馬氏系図の見直し 次ページ以降に、掲げた「相馬氏系図」は、筆者が『寛政重修諸家譜』を基に、諸系図を,下総相馬氏の系図や近世の旗本相馬氏、また、小田原藩士となった胤永系相馬氏、さらには、中世の奥州相馬氏や,近世大名となった歴代の中村藩主も掲載し、相馬氏のオールキャストです。,一、相馬氏系図(文責川嶋) 二、下総相馬氏 三、直参旗本相馬氏(文責川嶋),四、小田原藩士三、直参旗本 五、奥州相馬氏(文責川嶋) / 相馬氏系図の見直し
守谷城と下総相馬氏 (・相馬氏の妙見信仰)

守谷城と下総相馬氏 / ・相馬氏の妙見信仰 千葉氏は「妙見-将門-良文-千葉氏」の図式を主張したのに対して、相馬氏は、将門の,「将門-信田氏-相馬師常-相馬氏」と将門直系子孫を主張しています。,妙見が将門から離れ、良文につくことは触れず、将門の直系を自認する相馬氏にとって、将門が妙見に見放されることは,絶対に避けねばならず、相馬氏の妙見信仰を否定することになります。,相馬氏も千葉氏と同様、妙見菩薩を一族の守護神として篤く信仰し、一族や家臣が新しい土地へ移住した時に、その / ・相馬氏の妙見信仰
守谷城と下総相馬氏 (相馬氏系図の整理)

守谷城と下総相馬氏 / 相馬氏系図の整理 寛永十九年(一六四二)江戸幕府の命令によって、諸大名・御目見以上の諸氏の系図・略歴,以降成立しました)  ・『相馬之系図』 (奥州中村歓喜寺所蔵、寛永二十一年(一六四四)の奥書あり、下総相馬氏,されていますが、胤永系は小田原藩士の胤純まで記載)  ・『相馬当家系図』 (大阪市在住の小田原藩士の子孫相馬氏, ・『寛政重修諸家譜』 (文化九年(一八一二)江戸幕府により編さんされた系図、略して「寛政譜」、下総相馬氏,は、相馬是胤これたねが原図を提出、奥州相馬氏は相馬祥胤よしたねが原図を提出しました) / 相馬氏系図の整理
守谷城と下総相馬氏 (相馬氏系図の問題点)

守谷城と下総相馬氏 / 相馬氏系図の問題点 ① 「信田系図」の有り無し  有 将門-将国-文国-頼望-常望-将長-長望-重国,『相馬当家系図』、『寛政重修諸家譜』、『歓喜寺所蔵相馬之系図』    無 『寛永諸家系図伝・奥州相馬氏,』   *信田系図の採用は、下総相馬氏は当然として、千葉氏も採用しているのには驚きです。,奥州相馬氏の「寛永譜」は、当時、千葉系図を参考にして作成されたもので、「忠頼(将門の跡を継ぐ)」も採用,前後数代の曖昧さ    *胤経(たねつね)は、系図に小次郎、左衛門尉とありますが、「奥州相馬氏系図 / 相馬氏系図の問題点
守谷城と下総相馬氏 (奥州相馬氏の移転先)

守谷城と下総相馬氏 / 奥州相馬氏の移転先 奥州相馬氏の居館は、初め行方郡小鶴庄太田之里(南相馬市原町区中太田)に館を構え、,奥州相馬氏は、その後、牛越城(南相馬市牛越)を経て小高城へ戻り、慶長十六年(一六一一)中村城(相馬市中村 / 奥州相馬氏の移転先
守谷城と下総相馬氏 (補記 胤継系の下総相馬氏)

守谷城と下総相馬氏 / 補記 胤継系の下総相馬氏 胤継の義絶  胤継と胤村は異母兄弟で、先妻の子胤継は、継母の相馬尼に義絶,ご参考までに奥州相馬氏の行方郡の板碑数は、僅か十四基(岡田清一著『相馬氏の成立と発展』)です。,下総相馬氏も板碑造立が皆無という訳ではありませんが、後日の考証を待ちたいと思います。  ,その後の胤継系相馬氏は、残念ながら『千葉大系図』上では途絶えています。,一方、胤村系は、十代胤宗が海禅寺に安置されています「中世相馬氏の位牌」の冒頭にあります。 / 補記 胤継系の下総相馬氏
守谷城と下総相馬氏 (下総相馬氏の支城)

守谷城と下総相馬氏 / 下総相馬氏の支城 ①高井城(取手市下高井)は、小貝川河畔の低湿地に面した比高約十メートルの台地にあり,佐賀氏は相馬氏の家臣として主水佐(もんどのすけ)あるいは主水と名乗っています。,また、布施は相馬氏だけでなく小金城(千葉県松戸市)の高城(たかぎ)氏との関連性もあり戦国時代は相馬氏ついで / 下総相馬氏の支城
守谷城と下総相馬氏 (下総相馬氏関連年表)

守谷城と下総相馬氏 / 下総相馬氏関連年表 平安時代 一一二四 天治元年 六月、 平常重、常晴(時)の養子として相馬郡を相続,(相馬氏の後継者が不明状態カ) この頃カ - 相馬胤継、相馬尼(胤綱後家)に、義絶(勘当)される,の重胤を鎌倉幕府は「小高孫五郎」と呼ぶ 奥州相馬氏の奥州下向の時期は、元亨元年から二年の間 『相馬文書,が禅秀軍に参陣、(相馬氏は「千葉大系図」によれば、胤望跡の胤長) 『鎌倉大草紙』 一四三五 永享七年,」も参陣した模様 『鎌倉大草紙』 一四四五 文安二年 - 守谷城主相馬氏が、延命寺(坂東市岩井)を創建 / 下総相馬氏関連年表
守谷城と下総相馬氏 (相馬氏の小田原藩「順席帳」)

守谷城と下総相馬氏 / 相馬氏の小田原藩「順席帳」 相馬氏の末裔を語るのに、大事な「順席帳」と呼ぶ分限帳が有ります。,神奈川県史資料編5近世2』『二宮尊徳全集 第十四巻』・『安政五戊牛歳 順席帳』に紹介されていますので、相馬氏 / 相馬氏の小田原藩「順席帳」
守谷城と下総相馬氏 (参考 胤継系相馬氏の胤長)

守谷城と下総相馬氏 / 参考 胤継系相馬氏の胤長 応永二十二年(一四一五)五月、時の管領犬縣(いぬかけ)上杉禅秀は管領職を辞任 / 参考 胤継系相馬氏の胤長
守谷城と下総相馬氏 (『守谷城と下総相馬氏』発刊のご挨拶)

守谷城と下総相馬氏 / 『守谷城と下総相馬氏』発刊のご挨拶 守谷市観光協会会長 作部屋義彦  当会は、守谷市の二つの貴重な,改めて史料を調べたところ、戦国時代、相馬氏二十代当主治胤が小田原北条氏との和睦の条件として守谷城を古河公方御座所,築城時期を鎌倉期に比定し平将門につながる相馬氏の居城だったと云う歴史の縦軸だけではこの立派な中世城郭への,此の度、我らが畏友川嶋建さんと石井國宏さんが、長年の相馬氏研究の決定版を取り纏められ、さらに戦国時代関東全域,今回、市制施行二十周年を記念して、本書を発刊し、守谷市の将門伝説、下総相馬氏の歴史、戦国期北関東地方の / 『守谷城と下総相馬氏』発刊のご挨拶
守谷城と下総相馬氏 (守谷の海禅寺の相馬氏の墓)

守谷城と下総相馬氏 / 守谷の海禅寺の相馬氏の墓 海禅寺には、要胤と次の信胤の墓が並んで建てられています。 / 守谷の海禅寺の相馬氏の墓
守谷城と下総相馬氏 (旗本相馬氏の菩提寺松源寺)

守谷城と下総相馬氏 / 旗本相馬氏の菩提寺松源寺 六代目の要胤から牛込の通寺町の松源寺(しょうげんじ)に葬られます。 / 旗本相馬氏の菩提寺松源寺
守谷城と下総相馬氏 (③「相馬当家系図」(大阪市在住相馬氏所蔵))

守谷城と下総相馬氏 / ③「相馬当家系図」(大阪市在住相馬氏所蔵) 私事ですが、この系図が公表されたのが、平成十五年(二〇〇,高野山文書は小田原藩士相馬氏の古文書収集努力の成果です。 / ③「相馬当家系図」(大阪市在住相馬氏所蔵)
守谷城と下総相馬氏 (はじめに)

守谷城と下総相馬氏 / また佐藤雀仙人氏は奥州相馬氏の史料を見て五代師胤(もろたね)としていますが、下総相馬氏の系統では五代目,このように相馬氏は、下総相馬氏と奥州相馬氏の二系統があり、各系図も複雑かつ混迷を極めています。,間違いを犯し易く、出来る限り整理したいと考えたのが下総相馬氏研究の動機でした。  ,相馬家を全うした歴代相馬氏、および親族の小田原藩士の相馬氏、近世の守谷藩の支配者等々の事績を出来るだけ,守谷城と下総相馬氏は、まだまだ世間には知られておりません。
『守谷町史』 (最後の相馬氏)

最後の相馬氏 天正十八年、豊臣秀吉はただ一人残った北條氏を倒さんがために、天下の大軍を率いて小田原城,北條氏の輩下にあった相馬氏も同じ運命をたどらざるを得なかった。,秀吉の部下である木村常陸介、浅野弾正の両将が、守谷の地に進駐し、相馬氏に代わって守谷を領治することになった / 最後の相馬氏
守谷城と下総相馬氏 (相馬御厨内の城館)

守谷城と下総相馬氏 / 奥州相馬氏の分立や南北朝の動乱などがあり、相馬氏の城館は思ったより少なく、南北朝時代の文和二年(一三五三,相馬氏の御厨支配は事実上解体したようです。,城館名 場所 コメント 柴崎城 我孫子市柴崎 柴崎台地の中央に鎮座する柴崎神社は、将門以来相馬氏の守護神,奥州相馬氏の岡田胤康の所領。 手賀城 柏市手賀字下ノ坊 当城主は、原氏と推定される。,根戸城 我孫子市根戸 手賀沼を望む台地先端部にあり、高城氏・相馬氏が覇を争っていました。
守谷城と下総相馬氏 (五代相馬胤氏(たねうじ)(生没年不詳))

守谷城と下総相馬氏 / ところで、相馬氏の史料は、『吾妻鏡』の記述が終わった文永三年(一二六六)七月以降は、奥州相馬氏が遺してくれた,・下総相馬氏が、婚姻を機に娘へ譲渡した村々(相手先)  北相馬郡 守谷市  野木崎(新田岩松氏), 旧沼南町 鷲野谷 藤ヶ谷 高柳 ・奥州相馬氏の所領  南相馬郡 旧沼南町 泉   金山  上柳戸, 箕輪  柏市   増尾   船戸  鎌ヶ谷市 佐津間  粟野    下総相馬氏が守谷城を居城,次に奥州相馬氏の所領を除外して、残りの村々が居城範囲と考えます。
守谷城と下総相馬氏 (あとがき)

守谷城と下総相馬氏 / ここで、本文でも何回か触れておりますが、少し、下総相馬氏と奥州相馬氏との関係について、述べたいと思います,また、家系図を見ると、下総相馬氏の五代胤氏・六代師胤は、いずれも左衛門尉を名乗っていますが、奥州相馬氏,嫡流家は、奥州相馬氏と決め付けています。  ,なお、本文中に相馬氏のオールキャストと書きましたが、大きな誤りで全国にはまだまだ沢山の相馬氏が存在します,下総相馬氏の流れで、彦根藩に仕えた相馬氏、笠間藩士の相馬氏、喜連川相馬氏、更には外ガ浜の蓬田(よもぎだ
守谷城と下総相馬氏 (目次)

守谷城と下総相馬氏 / 目次 ごあいさつ               茨城県守谷市市長    松丸修久 『守谷城と下総相馬氏,   三、将門と千葉氏の関係    四、千葉氏の居城    五、相馬御厨の成立   第三章 相馬氏,の系譜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39    一、相馬氏系図    ,の移住    三、七代相馬胤基~二十代相馬治胤    補記 胤継系の下総相馬氏        146,  第六章 近世の旗本相馬氏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・193    
守谷城と下総相馬氏 (奥州移住理由)

守谷城と下総相馬氏 / も没収されそうになり(「相馬重胤申状案」)、この北条得宗家の専横に対処するため、彦次郎師胤の嫡子奥州相馬氏初代重胤,ここで、次ページに系図でもって下総相馬氏と奥州相馬氏を整理します。,奥州相馬氏が、近世に発刊した著作物が何冊かありますが、「一族」が纏まって移住したように書かれています。
守谷城と下総相馬氏 (守谷城の歴史的環境)

守谷城と下総相馬氏 / もろつね)は、鎌倉時代の初期、源頼朝書状に「さうまの二郎」と書かれており、相馬御厨の支配を公認された相馬氏,鎌倉時代の末期に四代目の胤村(たねむら)の孫相馬重胤(しげたね)が陸奥国の行方郡へ移住し「奥州相馬氏」,下総国に残った五代胤氏(たねうじ)は「下総相馬氏」といわれ以降、南北朝の動乱などの幾多の戦乱を経て二十代治胤,(はるたね)まで守谷城に居城していましたが、豊臣秀吉による「小田原合戦」で、北条方に与(くみ)した相馬氏
『守谷町史』 (相馬氏と守谷)

相馬氏と守谷 守谷地方を中心として、相馬郡一帯を領治し、地域住民の生活に大きな影響を与えた領主は相馬氏 / 相馬氏と守谷
守谷城と下総相馬氏 (①「相馬当家系図」(広瀬晋一氏所蔵))

守谷城と下総相馬氏 / 古代中世史料編』に収録されていますが、大正時代に取手市下高井の名主家の広瀬家が、大坂市在住の元小田原藩士だった相馬氏,の末裔の相馬氏より、系図や甲・鉄扇などと共に購入したものです。,岡田清一著『相馬氏の成立と発展』に記載されております。
守谷城と下総相馬氏 ([口絵])

守谷城と下総相馬氏 / 大利根博物館共同企画展 「平将門、史実と伝説の系譜」より転載 相馬胤永を祖とする小田原藩士系の相馬家に伝わる下総相馬氏,明治38年発行の『平将門故蹟考』には、東京に居住する相馬氏が将門の兜を伝え、妙見像を祀り相馬の系図を伝,形式からすると、戦国期の筋兜であるが、むしろ「下総相馬氏伝来の兜」としての価値が高い。,北関東の城郭図 相馬御厨の推定範囲と相馬氏の城郭
『守谷町史』 (第一節 相馬氏の系譜)

第一節 相馬氏の系譜 守谷の地は中世全般をとおして、代々相馬氏が領治していたところであった。,ところが、相馬氏の系統を綿密にしらべてみると、大変に複雑であって、その系譜書が十以上の多きにのぼり、それぞれ,が信太郡(現在の稲敷郡桜川村浮島)に逃れ、信田氏を名乗るのであるが、その子孫が相馬郡に帰還して、再び相馬氏,そして、いまひとつの例は、将門の叔父に当たる良文の子の忠頼を将門の養子として、その跡を継がせて相馬氏を / 第一節 相馬氏の系譜
『守谷町史』 (その頃の相馬氏)

その頃の相馬氏 鎌倉時代の初め頃、相馬氏は守谷を拠点として下総地方一帯にその勢力をもっていた。,源頼朝の挙兵にあたり、相馬常胤、師常父子は、誠意をもって頼朝に仕え、軍功をあげたので、相馬氏は鎌倉幕府,頼朝の親任が厚く、下総相馬郡のほかに、奥州行方郡の地を授けられ、その後、義胤の代には奥州高城保も賜り、相馬氏 / その頃の相馬氏
『守谷町史』 (天正初期の相馬氏)

天正初期の相馬氏 ここに天正年間の動勢のあらましを、守谷の相馬氏を中心として述べてみたい。  ,天正元年(一五七三)、関宿の簗田氏と佐竹義重が合体して、相馬氏の勢力範囲である猿島方面に出てきた。,元亀―天正初期の勢力圏 北條氏直書状(中世相馬氏の基礎的研究より)  また、この頃になると,、多賀谷政経も猿島付近の相馬氏の前衛基地をうかがって、盛んに攻撃を加えている。,守谷を本城とする相馬氏は、これに対して一族をその出城に配置して、万全の防塁を固めていた。 / 天正初期の相馬氏
守谷城と下総相馬氏 (十代相馬胤宗(たねむね)(生没年不詳))

守谷城と下総相馬氏 / また、海禅寺(守谷市高野)の「中世相馬氏の位牌」の冒頭に、「茂林秀公禅定門」とあり、法名を裏付けます。,「中世相馬氏の位牌」  裏面に、嘉永四(一八五一)辛亥年二月再建立とありますが、もとの位牌は、海禅寺,嘉永四年再建立之より、「旗本相馬氏の位牌』(P.199参照)と同年の再建から、幕末、最後の旗本である相馬祚胤,中世相馬氏の位牌(海禅寺蔵)  茂林秀公禅定門(胤宗) 月渓心公禅定門(資胤)  在林哲公禅定門
守谷城と下総相馬氏 (二、相馬郡の分割支配)

守谷城と下総相馬氏 / この古文書は奥州相馬氏が作ったものですが、末尾に「応永二」と異筆で書かれ、奥州相馬氏の所領以外も書かれており,相馬御厨の四至の南限「篠籠田(しこだ)」、及び相馬氏の所領である「増尾」・「藤心(ふじこころ)」・「佐津間,相馬氏も分割相続が続いたため庶流家が独立する傾向にあり、代を重ねる度に惣領の取り分が少なくなっております,したがって一族を束ねる経済力も落ち、特に相馬氏は嫁ぐ娘に土地を与え、岩松氏や島津家などの他家に土地が譲渡,さらに奥州相馬氏の分流で相馬宗家の解体が加速されます。
守谷城と下総相馬氏 (三、守谷城の築城者)

守谷城と下総相馬氏 / その後、永禄十一年(一五六八)には、北条氏により築城の粋を尽くした改築拡張を重ねられて、戦国末期まで相馬氏,「承久の乱」(ママ)後、次男で相馬氏を名のった師常は、居住する総州相馬郡番場村(柏市藤心)に、運慶の徒弟,境内に相馬氏の墓地があり、その中の高台に平将門の五輪塔が鎮座しています。,史実は、胤村の孫重胤(しげたね)が奥州行方郡へ移住し、奥州相馬氏の祖といわれています。,この相馬氏は、応安七年(一三七四)に出された「鎌倉府執事奉書」に相馬上野二郎とあります。
守谷城と下総相馬氏 (六代相馬師胤(もろたね)(生没年不詳))

守谷城と下総相馬氏 / 師胤の罪科は、下総相馬氏と奥州相馬氏との土地争いに起因します。  ,この内紛を契機に、下総相馬氏は没落を早め、そして、後家阿蓮尼一族は奥州へ移住します。  ,ところで、『藤代町史』/『茨城県神社誌』によれば、藤代にある「相馬神社」(もと八坂神社)は、相馬氏により,下総相馬氏は新田義貞軍に参陣し、奥州相馬氏は足利尊氏軍に与して、南北朝戦争に巻き込まれて行きます。
守谷城と下総相馬氏 (④「高井故城記」掲載系図)

守谷城と下総相馬氏 / ④「高井故城記」掲載系図 胤永の末裔(まつえい)については、P.45「小田原藩士の相馬氏」の系図で、,私案を掲げておりますが、『寛政重修諸家譜』は相馬氏の傍流であるが故、触れておらず参考になりませんので、
守谷城と下総相馬氏 (七代相馬胤基(たねもと)(生没年不詳))

守谷城と下総相馬氏 / この次郎は、そうそうたる大物の中に、その名があるので、相馬氏庶流とは考えられませんが、かといって、嫡流家,常陸国の南北朝動乱時、下総相馬氏の動向は皆目判りません。,関東結番(けちばん)交名注文」/『建武年間記』に、「相馬小次郎高胤」の名がありますが、「小次郎」は下総相馬氏,この斯波高経の言葉が、貞胤と忠重を助け、大袈裟にいえば下総相馬氏の命運を決めています。,この六ケ村は、旧領主である相馬氏が南朝方に属したため、北朝方に没収されて闕所になっていたと思われます。
『守谷町史』 (相馬氏亡ぶ)

相馬氏亡ぶ 天正十八年(一五九〇)五月、豊臣秀吉は小田原の北條氏政、氏直父子を討伐するため、全国の大名,このように相馬氏は一族を各支城に配して守りを堅固にしていたが、なにぶんにも孤立無援、優勢なる浅野、木村 / 相馬氏亡ぶ
守谷城と下総相馬氏 (第九代相馬矩胤(のりたね)(利胤(としたね))(一七一〇~一七八六))

守谷城と下総相馬氏 / なお、利胤の名は、海禅寺の「旗本相馬氏の位牌」から採りました。  ,享保年間(一七一六~一七三五)奥州相馬氏が海禅寺を何回か訪れています。,東京都千代田区神田)に於いて、国王神社(坂東市岩井)の将門八百年忌の御開帳に際して、翌年、社司から奥州相馬氏,奥州相馬氏は、守谷の海禅寺に将門堂を建立するなど、熱心な信奉者です。,やはり、神田明神は下総相馬氏が仕切っているので遠慮したのでしょうか。  
守谷城と下総相馬氏 (四代相馬政胤(まさたね)(?〜一六五五))

守谷城と下総相馬氏 / 江戸時代初期から、相馬氏の系図が乱れておりまます。,江戸幕府から『寛永諸家系図伝』の原稿を提出するよう求められた時、奥州相馬氏は下総相馬氏に系図を見せるよう,求めてきました、その顛末を奥州相馬氏側の史料で確認します。,この事件から、下総相馬氏との仲は、自然に中絶したとしています。  ,」の写を渡しているのにも拘わらず、寛永十八年(一六四一)の奥州相馬氏の要請を拒否しています。  
守谷城と下総相馬氏 (三代相馬盛胤(もりたね)(生没年不詳))

守谷城と下総相馬氏 / 生没年不詳) 小次郎、今の呈譜(ていふ)小三郎、信濃守、従五位下、号天崇(てんすう)、海禅寺の「旗本相馬氏,最後の旗本となった相馬祚胤は、江戸時代末の嘉永四年(一八五一)二月、地元守谷の海禅寺に「旗本相馬氏の位牌,この三名の名は、『寛政重修諸家譜』にも時代があたらしいので当然無く、唯一、最後の相馬氏三代の実名が記載,旗本相馬氏の位牌(海禅寺所蔵) 「旗本相馬氏の位牌」は次ページのように観音開きの厨子に納められており,秀胤・胤信の位牌は、「中世相馬氏の位牌」の中にあります(P.142参照)。
『改訂増補 守谷志』 ((五)相馬氏の末路)

(五)相馬氏の末路 天正十八年、是より先、已に京畿東海から中國四國九州に至るまで、擧げて之をその手中,守谷相馬氏も素より例外たることは得なかつた。,かくて過去何百年の間、相馬氏の本據であつた守谷城も遂に相馬氏の手から離るゝに至つた。,家康はこの際に東國名族を沙汰したのであつたが、相馬氏も地方の名家たるの故を以て、治胤の子小三郎秀胤を抽 / (五)相馬氏の末路
守谷城と下総相馬氏 (平将門公の位牌について)

守谷城と下総相馬氏 / ①『相馬藩世紀第二』(奥州相馬氏の藩主、相馬尊胤の事績を記した記録。)   ,ヲ安置、無量光院ヨリ伝来ノ願文帳巴陵院ニ有リ、旧士ノ姓名多シ、是以左ニ記ス、(以下略す)」  奥州相馬氏,(『相馬市史』)、応仁元年(一四六七)高胤は高野山無量光院を相馬氏の宿坊に定め先祖の供養を執行しています,なお、本文中にある標葉の標葉(しねは)清隆は、隣国の当主でしたが相馬氏に攻め滅ばされています。,相馬氏よりも早くから真徳院を宿坊としていました。    
守谷城と下総相馬氏 (江戸時代の文芸作品)

守谷城と下総相馬氏 / これには、将門直系子孫を名乗った相馬氏の存在が大きく、「相馬氏の居城=守谷城」から、「将門の王城=守谷城址
守谷城と下総相馬氏 (文献からの抽出)

守谷城と下総相馬氏 / ②天文十六年(一五四七)閏七月、「河越夜戦」の翌年、相馬氏は足利晴氏に与した十八代胤晴が討死し、十九代整胤,この戦いで小田原方の桜井某、興津神二郎は氏康から感状を受けていますので相馬氏は苦戦したと思われます。,相馬氏は北条氏に与したため佐竹氏から攻撃を受けました(東義久から上杉謙信への書状)。
守谷城と下総相馬氏 (第十三代相馬将枝(まさき)(?~一八四一))

守谷城と下総相馬氏 / 相馬氏の通字である胤を用いないのが、一風変わっています。,屋敷は、甲府城から最も近い一角(甲府市北口一丁目)を与えられていました(柴田聡司氏HP『江戸時代の下総相馬氏
守谷城と下総相馬氏 (信田系図の概要)

守谷城と下総相馬氏 / 信田系図の概要 下総相馬氏は、相馬系図に、いわゆる「信田系図」を加え、将門の直系を自称しています。,おそらく、将門の子孫を自称する相馬氏の伝承を加味しながら、幸若舞「信田(太)」が成立したのでしょう。,あるいは、相馬氏の系図に、「信田」せん。,将門と相馬氏の間に、「信田」氏を介在させ、相馬氏が将門の直系子孫となります。  
守谷城と下総相馬氏 (六、守谷城と周辺の合戦)

守谷城と下総相馬氏 / 城以外に相馬氏歴代当主たちは各地に幾度も転戦しています。まさに戦いに明け暮れた戦国時代でした。
守谷城と下総相馬氏 (奥書)

守谷城と下総相馬氏 / 奥書 守谷城と下総相馬氏 発行日  令和4年(2022)2月2日 著 者  川嶋建      
『守谷町史』 (南朝方の下総相馬氏)

南朝方の下総相馬氏 ここに、関東北部一帯の南朝方をみると、結城氏の本拠である白河城、田村荘の宇津峯城 / 南朝方の下総相馬氏
守谷城と下総相馬氏 (相馬一家連名帳)

守谷城と下総相馬氏 / 村上氏は大阪市在住の小田原藩士の末裔である相馬氏を訪ね、史料の撮影とワープロ化をしています。   ,この史料から「相馬当家系図」(大阪市在住の小田原相馬氏の子孫の蔵書p.233)には次の文言が記載されております,菅生越前守胤貞・筒戸小四郎胤文・大木駿河守胤清・新木三河守胤重は、相馬氏の通字の「胤」を用いていますので
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