[口絵]

ごあいさつ

『守谷城と下総相馬氏』発刊のご挨拶

はじめに

目次

第一章 平将門と信田氏の伝承

一、平将門とは

平将門の乱

『将門記』について

将門の生年と没年

平将門公の位牌について

将門の子女(将門伝説)

禅福寺と将門

二、信田(しだ)系図

信田系図の概要

信田小太郎の伝承

第二章 千葉氏の系譜

一、千葉氏系図

千葉氏系図の整理

二、千葉氏の祖、平良文

桓武平氏良文とは

千葉氏の菩提寺

三、将門と千葉氏の関係

四、千葉氏の居城

千葉宗家の持城

五、相馬御厨(そうまのみくりや)の成立

平常重の寄進

国司藤原親通(ちかみち)の横領

源義朝の介入

平常胤の寄進

佐竹義宗の寄進

平常胤の再寄進

相馬御厨の四至(しいし)(東西南北)

第三章 相馬氏の系譜

一、相馬氏系図

相馬氏系図の整理

相馬氏系図の見直し

相馬氏系図の問題点

二、相馬郡の分割支配

三、妙見信仰

妙見菩薩

西林寺の妙見尊

将門と妙見説話

・千葉氏の妙見信仰

・相馬氏の妙見信仰

相馬御厨内に在る妙見社

東海寺と妙見大菩薩

『大法師浄蔵伝(だいほつしじょうぞうでん)』の奥書の検討

第四章 守谷城

一、近隣城館

相馬御厨内の城館

下総相馬氏の支城

二、守谷城の概況

守谷城の位置

守谷城の名称は相馬要害・将門城

守谷城跡の発掘調査の時期

守谷城址の地理的環境

守谷城の歴史的環境

守谷城址の遺構

三、守谷城の築城者

古文書にみる「モリヤ」の地名

四、守谷城の存在価値

中世東国の「繋(つな)ぎの地域」の位置づけ

鎌倉公方・古河公方・喜連川公方の系図

戦国時代、守谷城は北条氏と反北条氏の境目の城

五、相馬要害から新守谷城の誕生

北条流築城術により新守谷城

守谷城の縄張

鉄壁の守り

六、守谷城と周辺の合戦

文献からの抽出

戦記物からの紹介

『東国闘戦見聞私記』の世界

七、守谷城の今昔

江戸時代の絵図

江戸時代の守谷陣屋跡(江戸時代の古城図及び『関宿伝記』より地名をかかげます)。

現在の二の曲輪・土橋・楯形曲輪

清水門土塁断面モニュメント

追記 守谷城の北条氏普請の考察

虎朱印

参考 関東の戦国大名と国衆の威信財(ステータスシンボル)

第五章 相馬氏の歴代当主

一、初代相馬師常~第六代師胤

初代相馬師常(もろつね)(一一三九~一二〇五)

二代相馬義胤(よしたね)(生没年不詳)

三代相馬胤綱(たねつな)(生没年不詳)

四代相馬胤村(たねむら)(?~一二七二)

五代相馬胤氏(たねうじ)(生没年不詳)

六代相馬師胤(もろたね)(生没年不詳)

二、奥州相馬氏の移住

奥州移住理由

下総相馬氏と奥州相馬氏の分立

奥州相馬氏の移転先

三、七代相馬胤基~二十代治胤

七代相馬胤基(たねもと)(生没年不詳)

八代相馬胤忠(たねただ)(生没年不詳)

九代相馬胤長(たねなが)(生没年不詳)

参考 胤継系相馬氏の胤長

十代相馬胤宗(たねむね)(生没年不詳)

胤村系相馬氏と胤継系相馬氏

補記 胤継系の下総相馬氏

十一代相馬資胤(すけたね)(生没年不詳)

十二代相馬胤儀(たねのり)(生没年不詳)

十三代相馬胤高(たねたか)(?~一五一一)

十四代相馬胤實(たねざね)(生没年不詳)

十五代相馬徳誕(のりのぶ)(?~一五二五)

十六代相馬胤廣(たねひろ)(生没年不詳)

十七代相馬胤貞(たねさだ)(生没年不詳)

十八代相馬胤晴(たねはる)(?~一五四六)

十九代相馬整胤(まさたね)(一五四四~一五六六)

二十代相馬治胤(はるたね)(一五四一~一六〇二)

相馬家の内粉

上杉謙信の臼井城敗退

守谷城進上

多賀谷重経の南侵

相馬一家連名帳

沼尻対陣

足高城落城

牛久城攻め

秀吉の「惣無事令」

小田原合戦

浅野長政・木村重茲(しげます)連書禁制状

第六章 近世の旗本相馬氏

一、旗本とは

大名・旗本・御家人の違いは?

旗本はどんな職制についていたか?

俗に旗本八万騎とは?

二、初代旗本相馬秀胤~第八代保胤(直参旗本相馬氏の系図は、P.44)

初代相馬秀胤(ひでたね)(?~一五九七)

二代相馬胤信(たねのぶ)(生没年不詳)

三代相馬盛胤(もりたね)(生没年不詳)

四代相馬政胤(まさたね)(?〜一六五五)

第五代相馬貞胤(さだたね)(?~一六五六)

江戸図と相馬屋敷

第六代相馬要胤(よしたね)(一六三一~一六九〇)

旗本相馬氏の菩提寺松源寺

守谷の海禅寺の相馬氏の墓

第七代相馬信胤(のぶたね)(一六五〇~一七一五)

第八代相馬保胤(やすたね)(一六八三~一七三六)

『江戸名所図会』

三、第九代旗本相馬矩胤~第十四代祚胤

第九代相馬矩胤(のりたね)(利胤(としたね))(一七一〇~一七八六)

第十代相馬是胤(これたね)(一七三九~一八〇四)

『耳袋』「相馬家の家風非常の事」(根岸鎮衛(やすもり)著文化六年(一八〇九)刊行)

第十一代相馬敏胤(としたね)(?~一八一〇)

第十二代相馬繋胤(つなたね)(?~一八一九)

遊歴雑記 第三「相馬家の嘉例の墨塗」

第十三代相馬将枝(まさき)(?~一八四一)

第十四代相馬祚胤(むらたね)(生没年不詳)

第七章 小田原藩士となった下総相馬氏

一、諸系図

①「相馬当家系図」(広瀬晋一氏所蔵)

②「相馬左近太夫・民部太夫系図」(広瀬晋一氏所蔵)

③「相馬当家系図」(大阪市在住相馬氏所蔵)

④「高井故城記」掲載系図

相馬胤永(たねなが)(一五五七~一六四〇)

二、小田原藩「順席帳」

相馬氏の小田原藩「順席帳」

三、小田原藩の相馬氏当主

初代相馬胤勝(そうまたねかつ)(一五七八~一六五二)

二代相馬胤将(たねまさ)(一六二〇~一六九〇)

三代相馬胤貞(たねさだ)(?~一七〇三)

四代相馬胤祥(たねよし)(一六九七~一七六七)

五代相馬胤英(たねひで)(?~一七七九)

六代相馬胤昌(たねまさ)(?~一八二一)

「小田原藩家中先祖書並びに親類書」

七代相馬胤吉(たねよし)(?~一八四八)

八代相馬胤明(たねあき)(一八一六~一八八〇)

箱根山崎の戦い

補記 誓願寺の相馬家の墓について

第八章 近世の守谷の支配者

一、近世、守谷藩の成立

二、歴代の支配者

①初代守谷藩主、土岐定政(さだまさ)(一五五一~一五九七)

②二代守谷藩主土岐定義(さだよし)(一五八〇~一六一九)

③三代守谷藩主土岐頼行(よりゆき)(一六〇八~一六八四)

④第四代守谷藩主堀田正俊(まさとし)(一六三四~一六八四)

⑤第五代守谷藩主酒井忠挙(ただたか)(一六四八~一七二〇)

三、その後の守谷の支配者

第九章 近世、守谷城址を訪ねた文人たち

一、将門伝説と守谷城址

書物にみる将門の親皇宣言と王城伝説

江戸時代の文芸作品

二、守谷城址を訪ねた文人たち

①今泉政隣(まさちか)

②溝口素丸(そまる)(そがんともいう)

③小林一茶(いっさ)・桜井蕉雨(しょうう)

④清水濱臣(はまおみ)

⑤高田與清(ともきよ)

⑥十方庵敬(じっぽうあんけいじゅん)

⑦赤松宗旦(そうたん)

織田完之について

補記 めくるめくばかりの深きほりき

守谷市の関連史料

① 徳川家康朱印状(長龍寺蔵)

② 下総国海禅寺縁起(海禅寺蔵)「巻子本」題 覚印周嘉禅師由緒写

③ 一色直為(いっしきなおため)開発手形(清瀧寺蔵)

④ 野木崎村年貢割付状(椎名家文書)

⑤ 鰐口(愛宕神社蔵)(守谷市本町)

⑥ 一色氏の墓(大圓寺)

⑦ 朝鮮通信使の扁額(清瀧寺蔵)

⑧ 平将門城趾碑(守谷小学校校庭)

⑨ 一茶句碑(西林寺)

⑩ 一里塚(赤法花)

参考 通信使について

参考文献

下総相馬氏関連年表

史料の解題

あとがき

奥書

著者紹介