千葉氏は、桓武平氏良文(よしぶみ)系で、最後の当主千葉重胤(しげたね)が、天正十八年(一五九〇)の「小田原合戦」で北条陣営に加わりましたが後に徳川家康の救解を受け、「家康は重胤のために二百石を与えようとしました。しかし、名門千葉氏を維持するには二百石では家臣を養えないと考えたのでしょうか、この申し出を重胤は断ります」(『千葉氏探訪』)。
結局、重胤は浪人して、寛永十年(一六三三)六月客死しましたが、子無きため千葉宗家は断絶しました。
重胤は浪人中、『千葉大系図』一巻を書き上げました。千葉氏諸系図の集大成です。重胤は、この系図を書きたいため旗本にもならず浪人に甘んじていたと思われます。
従って江戸幕府が編集した『寛永諸家系図伝』にも千葉系図は収録されず、基本的系図は不明ですが、千葉氏は名門故、二〇種前後の系図が残されています。
『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』・・・鎌倉時代末期に、坂東で生まれた『平家物語』の一異本で、良文が将門の養子となる。その後の千葉系図に影響を与えています。
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』・・・・・・・諸氏の系図を集成したもので、現在、知られるものの中では、一番信頼できるとされています。洞院公定(とういんきんさだ)が編者とされ、成立は十四世紀の末頃と推測されています。
『神代本(くましろほん)千葉系図』・・・・・・鎌倉時代末期、肥前に渡った「九州千葉氏」の系図で、千葉頼胤(よりたね)によって伝えられた「現千葉系図」が、神代(くましろ)家に伝わり、その後、鍋島(なべしま)家に渡った後に遺失しましたが、幸運にも、徳島(とくしま)家によって写し取られていました。『徳島本千葉系図』の誤記を訂正したのが『鍋島本千葉系図』で、『神代本千葉系図』は『鍋島本千葉系図』を写したものです。
『妙見本千葉系図』・・・・・・・・・・・・・・『千葉氏系図附幕之次第』所収系図。
『千葉系図』・・・・・・・・・・・・・・・・・『続群書類従第六輯上系図部』に記載されている系図。
『松羅館(しょうらかん)本千葉系図』・・・・・水戸松羅館に於いて製作されたと伝えられている系図で製作者不明、千葉氏の本は勿論、その氏族の名あるものには、大概収めています。相馬氏も記載されています。
『千葉大系図(たいけいず)』・・・・・・・・・寛永年中(一六二四~四四)千葉重胤が集成・編集した系図で、千葉氏諸系図の集大成版。
『成田参詣記(さんけいき)』・・・・・・・・・安政五年(一八五八)発刊、著者は中路定俊(なかみちさだとし)父子といいますが、正しくは国学者清宮秀堅(せいみやひでかた)の業績です。