桓武平氏良文とは

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 平将門の子孫と称する相馬氏は、桓武平氏良文流ですが、本家筋の千葉氏に対して分家筋に当たります。では、千葉氏のルーツ良文とは、どのような人物だったのでしょうか。
 良文は、『尊卑分脈』によりますと、「村岡(むらおか)五郎、従五位上」とあります。村岡の地は、相模国鎌倉郡村岡郷(藤沢市)、もしくは武蔵国大里郡村岡郷熊谷市、といわれ、一方、下総国結城郡千代川村村岡本田屋敷遺蹟(下妻市村岡)は、良文が幼年時を過ごした荘園地との伝承があります。将門が戦死したという川口村(八千代町水口(みのくち)は、この近所です。
 また、『今昔物語集』巻二十五「源宛(あつる)と平良文(よしふみ)と合い戦う語(こと)」に、「二人ノ兵(つわもの)、兵ノ道ヲ挑(いどみ)ケル程ニ、互ニ中悪シク、成ニケリ、五、六百許(ばかり)ノの軍有リ」で合戦に及んだとあります。軍勢同士の矢いくさは止めて、一騎討ちと決め騎射し合い、引き分けて、其の後、二人は仲直りしたといいます。この頃、良文は、五百の私兵を持てる身分だったのでしょう。決戦場所は明示されていませんが武蔵国であったらしく、その後、良文は、「坂東八平氏」の祖といわれ、武蔵国周辺の有力武士団を率いた代表格の家門に成っています。良文の孫の忠常(ただつね)は、十一世紀初めに房総を舞台に反乱を起こした平忠常です。
忠常は、上総介・下総権介と呼ばれるように、房総の大私営田領主でした。『今昔物語集』には、「私ノ勢力極テ大キニシテ上総・下総ヲ皆我ママニ進退シテ、公事ニモ不為リケリ」と忠常を評しています。
 忠常の乱が、房総方面に甚大な被害を与えたかについては、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』に「抑(そもそも)、安房・上総・下総、巳(すで)に亡国なり。」の記事から判断できます。この忠常の乱は、源頼信により平定されますが、忠常の子孫、常将(つねまさ)・常長(つねなが)は在地領主として育って行き常長の子・常晴(つねはる)は上総系千葉氏。次子・常兼は下総系千葉氏として、上総・下総地域の武士団を形成していきます。
 上総系千葉氏は広常が鎌倉幕府創設に大きく貢献します。しかし寿永二年(一一八三)十二月、頼朝は広常の謀反を疑い梶原景時に斬殺させます。嫡子良常も自害して上総系千葉氏一族は所領を収公されました。その後、下総系千葉氏の胤正の次子常秀と孫の秀胤が上総権介に任じられています。常秀は広常の遺領を継承して、上総一ノ宮の大柳(おおやなぎ)館に居住していました。
 上総権介秀胤(ひでたね)は、宝治元年(一二四七)の「宝治合戦」で三浦氏が滅亡したとき、三浦泰村(やすむら)の女婿の秀胤も鎌倉を追われ、上総一の宮の大柳館を攻撃され自害しています。当時、下総国の守護は千葉氏でしたが、この頃には所領も細分化され、勢力は弱体化し、房総三国に進出する北条氏に対応できませんでした。のち、房総は、小弓(おゆみ)公方足利義明(よしあき)・里見氏・真里谷(まりやつ)武田氏などが進出し、戦国の争乱を展開いたします。
 次ページに下総系千葉氏の系図を掲げます。表の丸囲み数字は歴代当主です。