班田収授(はんでんしゅうじゅ)制と公地公民制は十世紀には解体が進み。十一世紀後期には田畑をはじめとして全ての土地が私領化しています。有力農民は都の有力貴族や寺社に接近し自己の私領を彼らに寄進を行い私領の保護と引き換えに国司へ納めていた官物(かんもつ)・雑役(ぞうやく/ざつえき)を逃れてきました。寄進地系荘園のはじまりです。
千葉常胤は、久安二年(一一四六)相馬御厨寄進状に、先祖相伝の領地として、相馬郡の支配者履歴を記しています。
「当御厨は是、良文朝臣の所領、其の男経明(忠頼カ)、其の男忠経(忠常(ただつね))、其の男経政(常将(つねまさ))、其の男経長(常長(つねなが))、其の男経兼(常兼(つねかね))、其の男常重(つねしげ)、而るに経兼五郎より弟(実際は兄)常晴(つねはる)相承の当初、国益不輸地(こくやくふゆち)(国家から課税を免除される)となし、(以下略)」、それによると、相馬御厨は良文の所領といっています。
そして忠常・常長・常兼に伝領された相馬郡は、兄の常晴(上総系)に伝領されています。その後、常晴は「前大蔵卿」を介して、相馬郡を伊勢神宮に寄進、その結果「布瀬・墨(すみ)(黒(くろ)の誤記)埼御厨」が成立しました。布瀬墨埼の範囲は、のちの相馬御厨と大きな違いはありません。
天治元年一一二四六月、常重(下総系)は常晴の養子となって相馬郡を譲渡されます。その二年後、常重は大椎から亥鼻城に移っており、亥鼻は下総国に位置するので、相馬郡の譲渡は餞別だったのでしょうか。
彼は「郡務を知行せしむべし」という下総国府の国判を賜っています。
のち、相馬郡司に任命され、正六位上に叙せられ下総介に補せられたようです。