義朝の寄進に対抗して、常胤は今後の争いの原因を断とうと考え、未納の官物を国庫に納入しています。この時、常胤が納入した官物とは、上品(じょうほん)の八丈絹三〇疋、下品(げほん)の絹七〇疋、縫衣(ぬいぎぬ)一二領、砂金三二両、藍摺(あいずり)の高級布三〇反、中級布五〇反、上馬二疋、鞍を置いた駄馬三〇疋という莫大なものでした。
義朝が寄進した翌年の久安二年(一一四六)四月、常胤は、未納の官物納入が功を奏し、相馬郡司に任命されます。ところが、国司藤原親通に強要された新券のうち、立花郷は返還されませんでした。しかし、相馬郡は裁免されたので、久安二年(一一四六)八月、父常重と同様に相馬郡を皇大神宮に寄進します。
常胤の寄進後、義朝の下司職は否定された様子もないので、二重に寄進されたことになりますが、伊勢神宮側としては、年貢は多いほど良い訳で、別段、問題にしなかったようです。常胤は義朝の旗下に組み込まれ、「保元の乱」に従軍しています。