佐竹義宗の寄進

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 その後文書の上では十数年の空白がありますが、その間中央では「保元・平治の乱」が起き、義朝は敗死し「相馬御厨」は謀反人義朝の所領として国衙に収公されました。常胤の領有権に異を唱えたのが、常陸の佐竹昌義(まさよし)の子息義宗(よしむね)なる人物です。
 義宗の主張は国司藤原親通の子息親盛(ちかもり)から、「匝瑳(そうさ)北条之由緒」なる理由で当の御厨の公験(くげん)(所有者の移動を認める公式の証明書)を譲与されたとのこと、義宗は相馬御厨を、永暦二年(一一六二)、伊勢二宮(にぐう)(内宮・外宮(げくう))に寄進しました。
そして、義宗は常胤の権利を否定して、謀反人義朝朝臣年来の郎従と非難しています。