相馬御厨の四至(しいし)(東西南北)

37 ~ 38 / 330ページ
寄進年寄進者東境西境南境北境
大治五年(一一三〇)平常重蚊虻境(もんもうざかい)廻谷(めぐりたに)志子多谷(しこだたに)小阿高(こあだか)・衣河(きぬかわ)
東大路手下水海(てがのみずうみ)
大治五年(一一三〇)平常重蚊虻境廻谷志子多谷小阿高・衣河
東大路手下水海
天養二年(一一四五)源義朝須渡(すどう)河江口綾谷(めぐりたに)藺沽上大路(いぬまのぼりおおじ)阿太加(あだか)・絹河(きぬかわ)
目吹岑(めふきみね)
久安二年(一一四六)平常胤逆川口(さかかわぐち)・笠貫江(かさぬきのえ)下河辺(しもこうべ)境小野上大路(おのののぼりおおじ)衣川(きぬがわ)・常陸国
木埼(きざき)廻谷
永暦二年(一一六一)佐竹義宗常陸国堺葛飾(かつしか)坂東大路(ばんどうのおおじ)絹河・常陸国
幸嶋(さしま)両郡堺
永暦二年(一一六一)平常胤逆川口・笠貫江下河辺境小野上大路衣川・常陸国
木埼廻谷

東の境・・蚊虻境は蛟蝄(こうもう)→蚊虻(もんもう)→文間(もんま)と転訛しています、利根町立木(たつぎ)にこの蛟蝄(みずち/こうもう)神社が転訛の根拠です。蚊虻境はその先、東へ一キロ辺と比定されています。
     須渡(すどう)は、龍ヶ崎市須渡堀町、笠貫江(かさぬきのえ)は、利根町大房(たいぼう)にあった「カサヌキ沼」がその名残と思われます。
西の境・・菅生沼が相馬・猿島の郡境で、この辺を西限とします。目吹岑・木埼は、野田市目吹、木野崎に比定されています。
南の境・・志子多は柏市篠籠田(しこだ)、手下水海は手賀沼で、郡界は明瞭な自然地形に乏しいため曖昧です。
     しかし、『柏市史』は、手賀沼沿岸および手賀沼水系に属する一帯が相馬郡に、太日(ふとひ)川(現、江戸川)水系に属する地域が、葛飾郡とされていた可能性が高いとしています。
北の境・・衣川→絹川→小貝川は、往古、キヌ川と小貝川は、寺畑(つくばみらい市寺畑)で合流し、その下流は常陸・下総の国境を流れていました。小阿高はつくばみらい市足高(あだか)で、往古の流域が足高まで来ていたと想像されています。