『守谷町史』年表

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No 時代 年月日表記 西暦 できごと できごと
1 BC三〇、〇〇〇~一〇、〇〇〇年 刃器・尖頭器・細石器などがつくられ先土器文化が発達する。郷州原遺跡
2 BC六、〇〇〇年 このころ海運が最盛期となり、貝塚がつくられるようになる。北守谷遺跡など
3 BC四、〇〇〇年 鈴塚遺跡・郷州原遺跡(縄文)など
4 BC三、〇〇〇年 支谷に臨む台地上に大規模集落が形成されるようになる。今城遺跡など
5 BC二、〇〇〇年 遺跡数がやや減少する。大日遺跡(縄文)
6 AD二〇〇年 200 このころ、小貝川流域に水田が形成され、台地上に大規模な集落が営まれるようになる。大日遺跡(弥生)
7 三〇〇~四〇〇年 300 郷州原遺跡(古墳)・乙子遺跡・北今城遺跡・仲原遺跡・大日遺跡(古墳)
8 三五〇~四五〇年 350 このころ、茨城県内に初現期の古墳が築造される(八郷町丸山古墳・玉造町勅使塚古墳・岩瀬町狐塚古墳など)
9 四五〇年 450 このころから茨城県内に大形古墳が登場する(石岡市舟塚山古古墳・水戸市愛宕山古墳など)
10 四五〇年 450 常陸地方に六国が置かれ(高・久自・仲・茨城・筑波・新治)国造が支配する。守谷地方は印波国に属するとみられる
11 大化元年 645 常陸国、六評(郡)となる(新治・筑波・久慈・那賀・多珂・茨城)。守谷地方は下総国相馬郡となる。このころ、常陸国庁を茨城(石岡)、下総国庁を葛餝(かつしか)(市川)に置く 【参考事項】大化の改新
12 大化元年 645 このころ、古墳づくりが一般化し、群集墳が盛行する
13 天智九年 670 【参考事項】庚午年籍なる
14 持統元年 687 常陸国に高麗人五六人が配住される
15 文武二年 698 下総国大風、民家多数崩壊
16 文武四年 700 【参考事項】百済王遠宝がはじめて常陸守となる
17 大宝元年 701 郡庁がおかれるようになる 【参考事項】大宝律令の制定
18 大宝三年 703 郡庁足下総守となる
19 慶雲元年 704 【参考事項】婇女朝臣、常陸国司となる
20 和銅元年 708 賀茂吉備麻呂下総守となる 【参考事項】阿倍秋麻呂常陸守となる
21 和銅三年 710 【参考事項】平城京遷都
22 和銅六年 713 風土記撰上の詔。まもなく『風土記』の編纂がはじまる
23 和銅七年 714 【参考事項】石川難波麻呂常陸守となる
24 霊亀元年 715 このころ、里を郷とする
25 養老二年 718 【参考事項】養老律令の制定
26 養老三年 719 【参考事項】藤原宇合常陸守となる
27 養老五年 721 下総国倉麻(そうま)郡意布(おふ)郷戸籍(正倉院文書)
28 養老六年 722 【参考事項】このころ『常陸国風土記』完成
29 天平一三年 741 国分寺建立の詔。こののち、国府の地に国分寺・国分尼寺の建立がはじまる
30 天平一七年 745 両口布袋に「下総国相馬郡大井郷戸主矢作部麻呂調并庸布壱端」の墨書あり(正倉院宝物)
31 天平一八年 746 【参考事項】石上乙麻呂常陸守となる
32 天平勝宝四年 752 【参考事項】百済王敬福常陸守となる
33 天平勝宝七年 755 防人として筑紫に派遣された「相馬郡の大伴子羊」の歌が万葉集(巻二〇)にみえる
34 天平宝字二年 758 【参考事項】佐伯宿禰、今毛人常陸守となる
35 天平宝字八年 764 【参考事項】石上宅嗣常陸守となる
36 天平神護元年 765 常陸国に干ばつあり
37 宝亀七年 766 安房・上総・下総・常陸四国に船五〇隻を造らせ、陸奥国に置く
38 宝亀七年 766 このころから、下総国をはじめ東国の諸国は、東北経営のための人員・食糧・武器類を供給する兵站基地と化していく。そのため、農民の負担はますます増大する
39 延暦元年 782 永泉寺が創建されたと伝えられる
40 延暦一一年 792 常陸国健児二〇〇人を置く
41 延暦一三年 794 【参考事項】平安京遷都
42 天長一二年 826 【参考事項】常陸国親王任国となり、賀陽親王常陸大守となる
43 貞観六年 864 相馬郡は調・庸が二年間免除される
44 寛平元年 889 桓武天皇の皇曽孫高望王従五位下上総介に任ぜられ、平朝臣の姓を賜う
45 延長五年 927 長竜寺将門によって創建されたと伝えらる
46 承平元年 931 禅福寺(当時は真福寺)将門によって創建されたと伝えらる
47 承平元年 931 またこのころ海禅寺が創建される
48 承平五年 935 将門の争乱始まる。国香戦傷死する
49 承平五年 935 【参考事項】承平・天慶の乱
50 天慶二年 939 将門常陸国府に侵入する
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