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解説
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長野盆地を北流する千曲川では、篠ノ井塩崎から篠ノ井横田にかけて大規模な自然堤防の発達と広い後背湿地の形成がみられます。この広い後背湿地は、弥生時代以来現在まで変わることなく水田として利用されていて、「石川条里遺跡」と把握されています。 昭和63年度から開始された長野自動車道建設事業は周辺道路の整備を促し、主要地方道長野信州新線では高速道路関連道路改良事業として、既設の道路拡幅によるバイパス路線の整備が計画されました。この事業予定地が石川条里遺跡の範囲内に該当したことから、平成3年6月14日から同年11月8日にかけて発掘調査が実施されています。宮之前1号墳はこの調査で発掘されました。 調査着手以前より、墳丘とも見てとれる地形の高まりが観察されたことから、未確認古墳の存在が予想されていました。発掘が進むと、最大幅19m、深さ1.4mの大溝が確認されました。この大溝は宮之前地点の比較的高い箇所を区画するもので、少量ながら中世の遺物が出土しています。調査を行った「宮之前」には中世居館跡である「四宮氏居館跡」を想定する意見があり、発掘された大溝はこれに関わる遺構である可能性が考えられます。 さて、中世の大溝によって区画された範囲内からは、古墳時代前期に遡る、1.4m以上の厚さの盛土層が確認されました。この古墳時代盛土層が何であるのかを考える上で、次の点に着目できます。 ・古墳時代の盛土遺構であること。 ・盛土層としては厚く、遺物が多くは含まれないこと。 ・中世大溝の区画範囲が狭いが、これは自然地形、すなわち、古墳時代に形成された遺構の形状を規定されている可能性が高いこと。つまり、中世大溝は凹みを再掘削した可能性があり、盛土層の外側には周溝の存在を考えることができること。 ・宮之前地籍から背後の山丘は古墳時代には墓域として利用されていること。 以上の点はこの盛土層が古墳の墳丘盛土であることを示していると考えられます。これが宮之前1号墳です。 墳丘盛土層以外の遺構は確認されていませんが、直径あるいは一辺30m、高さ1.4m以上の墳丘規模と復元されます。墳丘形態は確定できませんが、近接する宮之前2号墳が円墳とみられることからは、同様に円墳の可能性も想定することができます。埋葬施設も不明ですが、出土した土師器からは古墳時代前期前半代の古墳と考えられます。 古墳時代前期前半代の長野盆地で、直径30m以上、墳丘盛土1.4m以上の盛土墳丘は他例をみない大型古墳となります。古墳時代前期後半から中期に川柳将軍塚古墳や中郷古墳という信濃でも屈指の前方後円墳が築造される地域の前史として、宮之前1号墳は大変注目されます。 また、宮之前1号墳が発掘された遺跡名は「石川条里遺跡」ですが、調査では高位段丘面(宮之前地籍)と低位段丘面(クネシタ地籍)が確認され、宮之前1号墳のほかに弥生時代や平安時代の集落が発掘されました。さらに北東側に位置する「石川条里遺跡消防塩崎分署地点」で段丘から低湿地(水田面)への地形変換点が確認されていることから、宮之前地点は生産(水田)域である石川条里遺跡とは性格が異なる遺跡となります。西側の山麓部に展開する長谷鶴前(はせつるさき)遺跡群として将来把握される可能性があります。
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