解説
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花井遠江守(とおとうみのかみ)吉成(~1613)は、徳川家康の六男松平上総介忠輝が慶長8年(1603)松城(松代)城主となったとき、家康の命により老臣となった人である。 慶長15年、忠輝が越後高田に移り北信四郡を併せ領したため、吉成は松城城代として行政に当たったが、同18年(1613)8月21日松城で没し、西念寺に葬られた。 西念寺は、衰微していたのを吉成が再び盛んにした寺で、吉成の法号「摩尼宝殿覚月正徹大禅定門」と刻まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられている。 塔は2段の石壇の上に据えられていて、基壇は高さ29.5㎝、基礎は高さ21㎝で、基礎の周辺を額縁状に刻んでいる。塔身は幅20㎝、高さ27㎝で、四面に楕円形の彫り込みがあり、その中に四方(しほう)四仏(しぶつ)の種字(しゅじ)が刻まれている。笠部は下二段、上四段に段をつけ、隅飾りの突起の輪郭を2つの弧で巻く。最上部には露盤の上に筒状の受花(うけばな)・伏鉢(ふくばち)をおき、さらに九輪(くりん)を立てる。江戸時代初期に建立されたと思われる塔である。 なお、吉成は松城城代の間、多くの土木事業を興しており、北国街道の改修、伝馬宿の設置をはじめ、裾花川の川筋を変えて氾濫を防ぎ、川中島平に犀川から用水路を引くなど水田の開発にも尽くした。こうした善政で人々から深く感謝され、花井神社として祭られている。
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