解説
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恩田木工(もく)民親(たみちか)の墓は高さ240㎝の宝篋印塔で、正面に「玄招院鉄翁道関居士」、左の側面に「宝暦十二壬午載正月上六日」、右の側面には「俗名恩田氏民親墓」と刻まれている。 民親は享保2年(1717)(一説に享保3年)、松代藩家老職の家に生まれた。当時、藩の財政は非常に苦しく、領民もまた困窮して百姓一揆(いっき)が起こる状態だった。藩主の真田幸弘はこうした状況を打破するため、民親を勝手係に抜擢(ばってき)する。宝暦7年(1757)、民親39歳のときである。 民親の施政方針は、「うそを言わないこと」「倹約すること」「贈収賄をしないこと」「賭博(とばく)行為も営利が目的でなく、娯楽とするならよい」などであった。 また、年に1度の納税法を改めて月割納方にすることにより、納税しやすくするとともに滞納を整理し、さらに領民の収入を増やすため山野荒地の開墾、養蚕の奨励にも力を入れた。このほか神仏崇敬(すうけい)思想をひろめ、精神を高める努力もしている。 このような民親の業績は『日暮(ひぐらし)硯(すずり)』に詳しく書かれているが、松代藩のほかにもこの方針を採用した藩も多かったという。 宝暦12年(1762)1月6日、病気のため46歳で死去した。のち大正7年に正五位を贈られている。
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