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文化財名 恩田木工民親の墓
文化財名(かな) おんだもくたみちかのはか
欧文タイトル
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差出 作者
受取
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年代 1762年(宝暦12年)
年代終
員数 1基
形態
寸法(図録用)
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ISSN
テーマ 4松代城下町に伝わる武家文化
地区別 松代
関連する人物・団体
検索用時代区分_文化財 江戸時代
検索用時代区分_文化財コード
検索用時代区分_文化財終
検索用時代区分_文化財終コード
内容細目
解説  恩田木工(もく)民親(たみちか)の墓は高さ240㎝の宝篋印塔で、正面に「玄招院鉄翁道関居士」、左の側面に「宝暦十二壬午載正月上六日」、右の側面には「俗名恩田氏民親墓」と刻まれている。
 民親は享保2年(1717)(一説に享保3年)、松代藩家老職の家に生まれた。当時、藩の財政は非常に苦しく、領民もまた困窮して百姓一揆(いっき)が起こる状態だった。藩主の真田幸弘はこうした状況を打破するため、民親を勝手係に抜擢(ばってき)する。宝暦7年(1757)、民親39歳のときである。
 民親の施政方針は、「うそを言わないこと」「倹約すること」「贈収賄をしないこと」「賭博(とばく)行為も営利が目的でなく、娯楽とするならよい」などであった。
 また、年に1度の納税法を改めて月割納方にすることにより、納税しやすくするとともに滞納を整理し、さらに領民の収入を増やすため山野荒地の開墾、養蚕の奨励にも力を入れた。このほか神仏崇敬(すうけい)思想をひろめ、精神を高める努力もしている。
 このような民親の業績は『日暮(ひぐらし)硯(すずり)』に詳しく書かれているが、松代藩のほかにもこの方針を採用した藩も多かったという。
 宝暦12年(1762)1月6日、病気のため46歳で死去した。のち大正7年に正五位を贈られている。
解説(英語)
来歴
来歴(英語)
所在 長野市松代町松代
文化財番号 105
管理記号
カテゴリ区分
文化財種別 史跡
大分類 指定等文化財
中分類
小分類
文化財情報 市指定/市指定記念物/昭和 42年11月1日/1967/11/1
上位階層目録ID
関連目録ID
manifest.jsonへのURL
参照データ
長野市行政地図情報 https://www2.wagmap.jp/nagano/Map?mid=24&fid=413-48&mps=5000
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自治体史掲載
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DOI
既刊目録名
デジタル化の経緯に関する注記
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