解説
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江戸時代末期の画家 冷泉為恭(れいぜい ためちか)(1823~1864)が三十五歳のときの彩色画で、縦153㎝、横61.2㎝、の軸装品である。図の大きさは縦95㎝、横52.2㎝。 作者の為恭は京狩野(①きょうかのう)家から出て蔵人所(くろうどどころ)岡田家の養子となった。江戸末期の当時は国学が盛んとなり、絵画にもこの影響がおよんで、為恭は形式的になった大和絵(②やまとえ)に新風を吹き込もうと古典の名作を熱心に模写した。自らも岡崎大樹寺の襖(ふすま)絵などを仕上げており、復古大和絵(③)の巨匠として名をあげたが、勤皇思想家であったため、四十一歳の若さで暗殺された。 白衣観音坐像図は明治初期に、かつて紀州粉河寺の住職で為恭を特別に庇護した願海(がんかい)上人(しょうにん)(1823~1873)が、寛慶寺に寄贈したものといわれている。 願海上人は戸隠・善光寺・塩田など信州に足跡を残しており、寛慶寺住職とも親交があった。 画幅の軸止めに「白衣観音像呉道子図、原本高野山集院に有り、大行満願海蔵と云う」とあり、また「慈悲の権化たる観自在に帰命す。悟りを求める菩薩、偉大なる摩訶薩」の梵(ぼん)字を主とした願海上人の画賛がある。呉道子(玄)は中国唐代の仏画第一人者で、為恭はこの原画を模写したことが知られる。 なお、長井雲坪はこの画を岩上山中の観音像として模写している。
注①京(きょう)狩野(かのう)家・・狩野派は室町時代中期から明治まで続いた日本絵画史上最大の流派。京狩野は京都に住んだ山楽(1559~1635)に始まる 注②大和絵(やまとえ) 注③復古(ふっこ)大和絵・・大和絵は唐絵(からえ)に対する語で、古くは倭絵の字を当てた。唐絵が中国の風俗・山水を主題とするのに対し、日本の風物を描いたものを大和絵といい、十世紀初頭から見られる。江戸後期には復古大和絵派という平安・鎌倉時代の倭絵に学ぶ絵師の一群が出て、その伝統は明治にも受け継がれた。
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