解説
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指定の書状は二通あり、ともに折紙で慶長元年(1596)八月十二日のものである。 この年の七月十二日、京都一帯に起きた地震で京都大仏殿の大仏が壊れてしまったため、豊臣秀吉は甲府の善光寺本尊を大仏殿に迎えようとし、朝廷や善光寺の本寺だった聖護院(しょうごいん)門跡(①もんぜき)を通して家康に働きかけた。当時甲斐(かい)(山梨)は家康の支配下にあったからである。 一通は参議左中将中山慶親にあてたもので、「善光寺本尊のことについて勅使ならびに綸旨(②りんじ)を(甲州善光寺へ)下される由、謹んで承知申し上げた」といった内容である。他の一通は聖護院坊官岩坊にあてて同じ趣旨が述べられており、それぞれ係のものにあてられてはいるが、事実上は天皇および聖護院門跡(道澄)にあてたもので、善光寺本尊の上洛(じょうらく)(京へ上る)についての根本史料である。 この善光寺本尊の上洛に関しては、大本願の智慶が陰で努力したようで、智慶は翌年の慶長二年、道澄のとりもちによって上人号を勅許されている。 なお、善光寺本尊は武田信玄によって甲府に移され、武田氏滅亡後は織田信長により岐阜に移された。信長の死後再び甲府へ、さらに秀吉によって京都に移されたが、その死の直前に信濃の旧地に送り返された。
注①門跡(もんぜき)・・・皇族・摂家などの出身の住職。道澄は関白近衛前久の弟である。 注②綸旨(りんじ)・・・天皇の命令書。
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