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文化財名 徳川家康書状
文化財名(かな) とくがわいえやすしょじょう
欧文タイトル
資料名に関する注記
差出 作者
受取
製作者
年代 1596年(慶長元年)
年代終
員数 2幅(巻子、紙本墨画)
形態
寸法(図録用)
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言語
ISBN
ISSN
テーマ 5善光寺・門前町に息づく歴史文化と祭礼
地区別 第二
関連する人物・団体
検索用時代区分_文化財 安土桃山時代
検索用時代区分_文化財コード
検索用時代区分_文化財終
検索用時代区分_文化財終コード
内容細目
解説  指定の書状は二通あり、ともに折紙で慶長元年(1596)八月十二日のものである。
 この年の七月十二日、京都一帯に起きた地震で京都大仏殿の大仏が壊れてしまったため、豊臣秀吉は甲府の善光寺本尊を大仏殿に迎えようとし、朝廷や善光寺の本寺だった聖護院(しょうごいん)門跡(①もんぜき)を通して家康に働きかけた。当時甲斐(かい)(山梨)は家康の支配下にあったからである。
 一通は参議左中将中山慶親にあてたもので、「善光寺本尊のことについて勅使ならびに綸旨(②りんじ)を(甲州善光寺へ)下される由、謹んで承知申し上げた」といった内容である。他の一通は聖護院坊官岩坊にあてて同じ趣旨が述べられており、それぞれ係のものにあてられてはいるが、事実上は天皇および聖護院門跡(道澄)にあてたもので、善光寺本尊の上洛(じょうらく)(京へ上る)についての根本史料である。
 この善光寺本尊の上洛に関しては、大本願の智慶が陰で努力したようで、智慶は翌年の慶長二年、道澄のとりもちによって上人号を勅許されている。
 なお、善光寺本尊は武田信玄によって甲府に移され、武田氏滅亡後は織田信長により岐阜に移された。信長の死後再び甲府へ、さらに秀吉によって京都に移されたが、その死の直前に信濃の旧地に送り返された。

 注①門跡(もんぜき)・・・皇族・摂家などの出身の住職。道澄は関白近衛前久の弟である。
 注②綸旨(りんじ)・・・天皇の命令書。
解説(英語)
来歴
来歴(英語)
所在 長野市大字長野元善町
文化財番号 200
管理記号
カテゴリ区分
文化財種別 文書
大分類 指定等文化財
中分類
小分類
文化財情報 市指定/市指定有形文化財/昭和 63年3月31日/1988/3/31
上位階層目録ID
関連目録ID
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参照データ
長野市行政地図情報 https://www2.wagmap.jp/nagano/Map?mid=24&fid=131-48&mps=5000
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自治体史掲載
出版物・関連資料
翻訳の言語
権利関係・二次利用条件 独自規定あり
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DOI
既刊目録名
デジタル化の経緯に関する注記
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