解説
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善光寺本堂の東南に道路を隔てて大きな寺がある。これが寛慶寺で、栗田氏が市内栗田に開基した寺である。栗田氏は戸隠山の別当として平安時代から戸隠山と関係を持ち、江戸時代に栗田は戸隠山千石分の一部の社領でもあった。 この関係かどうかわからないが、明治初年の神仏分離による廃仏毀釈で戸隠山奥院の仁王堂(いまの随神門)に安置されていた仁王(金剛力士)が、戸隠山を出てこの寛慶寺にあるのは奇しき縁である。 二躯の金剛力士像は阿形(①あぎょう)・吽形(うんぎょう)ともに檜材の一木造りで、像高は両者とも280㎝である。単髻、彫眼(②ちょうがん)で、肉身朱彩としている。 「明応七年(1498)五月八日 安養寺林首座 願主浄泉十穀」の銘記があり、また、宝永四年(1707)・安永三年(1774)の修理についての記録が残っている。 秀作ではないが、戸隠山盛時の数少ない遺品のひとつとして保存すべきものである。 注①阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)・・・金剛力士(仁王)は口を開く阿形と口を閉じる吽形とが一対となり、守門神となる場合が多い。阿・吽は一切の文字音声の根本とされ、それぞれ息を吐くことと、息を吸うことを意味する。 注②彫眼(ちょうがん)・・・・玉眼(水晶をはめ込んだもの)を用いず、じかに彫ってある木彫像の眼。
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