解説
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この祗園祭礼は祗園御霊会(ごりょうえ)・牛頭(ごず)天王祭ともいい、御霊信仰の一種である。平安時代に虫害疫病を除去する神が京都八坂から起こり、全国に広まって祗園信仰の中心となったものである。 旧長野市内では毎年旧暦の六月、斎藤神官によって妻科聖徳宮内で牛頭天王降神の儀(天王オロシともいう)が執り行われ、続いて上西之門町の弥栄神社仮宮(旅所)に奉祀されていた。 また、善光寺小誌によると、宝亀二年(771)六月十二日に善光寺開山忌が挙行されている。 善光寺町の夏祭り(祗園天王御祭礼)はこれらが結合して発展成立したもので、現在、六月十一日に大勧進・大本願から斎藤神官および西町玉屋喜右衛門に松葉が与えられているのはその名残である。 この山車(だし)(屋台)は、江戸時代の天明・寛政期(1781~1793)に、西町の与惣右衛門(深沢氏)が中心となって制作案が立てられ、中御所村北中大工金右衛門(清水氏)一族を京都に派遣して実地研究させ、帰郷後の寛政五年(1793)六月に完成したものである。 総黒漆塗りで、金具(十四金)は赤金鋲留めとし、彫刻材はケヤキ・ヒノキを用いて、刻物の上部を金箔・金粉、その他は漆絵の具で塗装する。また、山車の前面の踊舞台には柿本人丸坐像を安置している。 なお、全町内の山車につく御囃子曲には「神楽・二あがり三さがり・大星」があるが、特に能管(太笛)を用いる高調子の曲「大星」は、善光寺町中央通りの坂道をこれに合わせて速く引き上げるため、考案創作されたものである。
この文化財は西町上区が所有しているもので、寄託を受けて長野市立博物館で展示されています。
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