解説
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熊野出速雄神社は皆神山上にあり、一般に皆神神社として知られている。熊野出速雄神社はその本社に相当し、出速雄神ほか計7神を祭神として祀る。中世以降、熊野系の修験道の聖地として栄え、「熊野三社権現」と呼ばれたが、明治維新の神仏分離令により、山伏は還俗し、社名を「熊野出速雄神社」に改めた。 本殿の建築年代について、社伝では康応元年(1389)の再建と伝え、また、野火で全焼したとの伝えもある。本殿の構造形式は、後述のように、15世紀末期ないし16世紀初期の特徴をもち、かつて内陣に安置されていた本尊(現在は本殿隣の宝物殿に安置)の底面及び台座の墨書「弥勒二年」(天文元年1532)の造立銘と年代的にほぼ符合し、15世紀末期ないし16世紀前期の建築と推定される。 その構造形式は間口柱間三間、奥行柱間五間の縦長平面で、屋根は鉄板葺(元茅葺)で正面と後方左右に入母屋破風をつけた撞木造である。四周に縁をまわし、軒を支える支柱を建てる。軸部は、円柱の上に台輪と桁を載せ、組物を用いず、軒は一軒疎垂木の簡素な形式である。 内部は、現在三室に区切られているが、当初は、内陣と外陣の二室に区切られていたことがわかる。 なお、虹梁下面の錫状彫や古い垂木にみられる反りと増しが、室町後期建築の特徴を示している。 この北信地方は、かつて修験道の栄えた地域であるが、現存する遺構は少なく(小菅神社奥社本殿(重文、推定1508年)、戸隠神社宝光社(1861年))、その点で、熊野出速雄神社本殿は中世の遺構であり、非常に貴重である。 また、妻入の形式も、上記2棟や建応寺跡(中野市)の建物とも共通し、修験道建築の特色を示すと考えられる。 (長野県指定文化財候補物件調査票より: 調査者 大河氏)
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