乗合自動車の登場

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日本に乗合自動車が登場したのは、明治も後半の三六年(一九〇三)。広島市の横川―可部間を走ったのが最初であるという。ところが成績が振わず、半年で潰れてしまった。同じ年、大阪の第五回内国勧業博覧会では、神戸のニッケル商会の外人が、梅田天王寺間に乗合自動車を走らせ、京都でも、福井九兵衛が、市街地乗合自動車を開業した。
 これらを発端として、各地に続々と私設の自動車会社が生まれ、同四二年には、一三五台にも達したという。官営では、同四五年(一九一二)鉄道省が、片町―四条畷町間に乗合自動車を走らせたのが省営バスの起りとなった。どうしたわけか東京では、その出現がおそく、大正二年(一九一二)になって、帝王電鉄が軌道未完成の調布―府中間、新宿―笹塚間を自動車による連絡運転したのが始めである。この頃になると、地方でも、人力車や乗合馬車と共に、乗合自動車がぼつぼつみられるようになった。
 本県では、大正二年(一九一二)四月、君津郡湊町万才館経営の自動車が木更津港―湊間を運行したのが最初である。本郡では、大正九年(一九二〇)二月、古山自動車が、本納駅―白潟海岸の路線許可を得た。古山氏は当時二三歳の青年だった。運転開始当時は、一台の車で一日平均五、六人を運び、運賃は五五銭(雨天夜間は二割増)ということだった。当時は、自動車にのるのはぜいたくだという考えが強く、営業も苦しかったが、次第に発展、昭和一二年(一九三七)まで続き、その後、小湊鉄道に合併した。
 現在、長柄町を走っている定期バスは、小湊バスと東洋バスの二社であるが、乗合バスが一般庶民の足として利用されるまでには、さまざまな経緯を辿ってきた。