小湊バス

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本社は、大正六年(一九一七)五月一九日、市原郡五井町(現市原市)に創立、鉄道及びバスを経営した。本町内を最初に運行したのは、茂原―一の橋―鼠坂の路線であった。その後次第に路線の数を増し、昭和四年(一九二九)一〇月一九日、鼠坂線を、追分千葉に延長。同九年六月二八日、長南―追分―千葉線を、同一五年六月一一日、茂原刑部線を吸収合併した。この茂原―刑部線は最初小松本バスと言い、大正一五年から運行し、フォードの五人乗りの普通の車であったが、十人以上をつめこみ、一台で茂原刑部間を往復した。当時の岩川は悪路で雨天には泥濘にはまって動かなくなると乗客は全部降りて、後押しをした。車の後には、シャベルがつまれており、時には運転手が、それをつかって道の修理をしながらようやく動かした。二時間に一回位だったが、料金は、刑部からは七十銭、鴇谷からは五十銭だった。運転手の背広姿が若い娘たちの憧れのまとで、車が通ると手をあげて歓声をあげていたものである。後に道路もよくなり乗用車が、この線でバス型になったのは昭和八年ごろからである。
 開設当初使用した車は、みな乗用車なみの小さなものであったが、昭和四・五年頃から、二〇―二五人乗の車輛が使われるようになった。
 バス料金は、昭和七年頃、茂原(バス)―千葉―(京成)上野まで通しで八二銭。同一〇年頃、長南―千葉間が六〇銭、長南―茂原間が二五銭。茂原―千葉間の汽車賃が五四銭であったので、長南から千葉へゆくには、汽車を用いると七九銭かかるので、バス利用者が多かった。本町の人々も多くはバスを利用していた。しかし道路がガタガタで車酔する者もあり、ぼんやり坐っていると車の動揺ではね上げられ、天井に頭をぶつけてけがをする者もありなかなかの難路であった。
 開業数年間の運行は、一定の停留所を設けず、随所で手をあげれば、乗れ、車中で運転手に話しておけば、どこでも自由に降りられた。
 昭和一六、七年頃から戦争のため、あらゆるものが統制され、バス会社も統合された。当時郡内には、六つの会社(石塚自動車、袖ケ浦自動車、杉浦自動車、笠森自動車、大屋自動車、小松本自動車)のバスが運行していたが、昭和一五年から順次統合され、同一八年には、小湊バスにすべてが合併して一社となったのである。
 やがてガソリンの配給もなくなったので、木炭や薪を燃料として運転する木炭車が発明された。バスの後部に大きな燃料タンクをつけ、薪をたいてガスを発生させるもので、始動までに二、三〇分はかかった。力が弱い上に速度もおそく、坂道に差かかると、乗客は降りて歩き、時には車を坂上まで押し上げてから、再び乗るという状態であった。この状態は、終戦後数年続いたのである。
 終戦後は、ガソリンも十分に得られ、車輛も急速に改善され、道路の舗装も年毎にすすんで、乗合バスは、町のすみずみにまで路線をのばすことが出来るようになった。現在は路線も増加し、町民の足として、通勤や通学にも利用されている。主な路線は次の通りである。
 (ア) 茂原駅―一の橋―鼠坂―追分―千葉線
 (イ) 長南―追分―千葉線(長南から大多喜方面へ)
 (ウ) 茂原駅―鴇谷―刑部―山田線
 (エ) 茂原駅―鴇谷―刑部―大津倉線
 

乗合バス(小湊鉄道株式会社)


 昭和一九年(一九四四)、かつて南総鉄道本社跡(笠森)を小湊バス茂原営業所笠森車庫とし、二五人の運転手、三〇人の車掌の宿舎もあったので、ここを起点として車の運行表がつくられていた。そのため、水上方面は回数も多く極めて便利であったが、昭和四六年三月末、長南に移転されたので、路線の一部も変更され、回数も減少している。
 
表4 バス路線調(S47.4月末)
  要項
会社
路   線運転開始
年月日
町内路線
の長さ
備   考
小湊バス茂原―一の橋―鼠坂―追分―千葉昭和 4.10.1919km茂原―鼠坂間は大正12.2.28
長南―追分―千葉昭和 9. 6.28
茂原―鴇谷―刑部―山田昭和17. 6.30茂原―刑部間は昭和15.6.11
大多喜|長南―追分―千葉昭和31. 9. 1
茂原―鴇谷―刑部―大津倉―笠森昭和31.12.18昭和47.4.16以後は大津倉止り
東洋バス茂原―長富―誉田―千葉昭和10.12.318.25km昭和46.10.10以後誉田止り