開設当初使用した車は、みな乗用車なみの小さなものであったが、昭和四・五年頃から、二〇―二五人乗の車輛が使われるようになった。
バス料金は、昭和七年頃、茂原(バス)―千葉―(京成)上野まで通しで八二銭。同一〇年頃、長南―千葉間が六〇銭、長南―茂原間が二五銭。茂原―千葉間の汽車賃が五四銭であったので、長南から千葉へゆくには、汽車を用いると七九銭かかるので、バス利用者が多かった。本町の人々も多くはバスを利用していた。しかし道路がガタガタで車酔する者もあり、ぼんやり坐っていると車の動揺ではね上げられ、天井に頭をぶつけてけがをする者もありなかなかの難路であった。
開業数年間の運行は、一定の停留所を設けず、随所で手をあげれば、乗れ、車中で運転手に話しておけば、どこでも自由に降りられた。
昭和一六、七年頃から戦争のため、あらゆるものが統制され、バス会社も統合された。当時郡内には、六つの会社(石塚自動車、袖ケ浦自動車、杉浦自動車、笠森自動車、大屋自動車、小松本自動車)のバスが運行していたが、昭和一五年から順次統合され、同一八年には、小湊バスにすべてが合併して一社となったのである。
やがてガソリンの配給もなくなったので、木炭や薪を燃料として運転する木炭車が発明された。バスの後部に大きな燃料タンクをつけ、薪をたいてガスを発生させるもので、始動までに二、三〇分はかかった。力が弱い上に速度もおそく、坂道に差かかると、乗客は降りて歩き、時には車を坂上まで押し上げてから、再び乗るという状態であった。この状態は、終戦後数年続いたのである。
終戦後は、ガソリンも十分に得られ、車輛も急速に改善され、道路の舗装も年毎にすすんで、乗合バスは、町のすみずみにまで路線をのばすことが出来るようになった。現在は路線も増加し、町民の足として、通勤や通学にも利用されている。主な路線は次の通りである。
昭和一九年(一九四四)、かつて南総鉄道本社跡(笠森)を小湊バス茂原営業所笠森車庫とし、二五人の運転手、三〇人の車掌の宿舎もあったので、ここを起点として車の運行表がつくられていた。そのため、水上方面は回数も多く極めて便利であったが、昭和四六年三月末、長南に移転されたので、路線の一部も変更され、回数も減少している。
表4 バス路線調(S47.4月末) |
要項 会社 | 路 線 | 運転開始 年月日 | 町内路線 の長さ | 備 考 |
小湊バス | 茂原―一の橋―鼠坂―追分―千葉 | 昭和 4.10.19 | 19km | 茂原―鼠坂間は大正12.2.28 |
長南―追分―千葉 | 昭和 9. 6.28 | 〃 | ||
茂原―鴇谷―刑部―山田 | 昭和17. 6.30 | 〃 | 茂原―刑部間は昭和15.6.11 | |
大多喜|長南―追分―千葉 | 昭和31. 9. 1 | 〃 | ||
茂原―鴇谷―刑部―大津倉―笠森 | 昭和31.12.18 | 〃 | 昭和47.4.16以後は大津倉止り | |
東洋バス | 茂原―長富―誉田―千葉 | 昭和10.12.31 | 8.25km | 昭和46.10.10以後誉田止り |