明治四年(一一七二)四月二〇日、政府によって始めて郵便が、東京大阪間を走り出したと言われるが、その取扱のため、各地に、書状集箱(郵便ポスト)がおかれ、郵便切手も発行され、東海各駅には継立場(後の郵便役所)がおかれて脚夫を配置した。これが郵便局の初めであって、明治八年(一八七六)一月より郵便局と名づけた。その後政府は、地方の名望家や資産家を説得して、郵便取扱役に任命し、自宅を郵便取扱所に充てたので、あまり費用もかけず、全国到る処に取扱所が設けられ、その伸びは、誠にめざましいものがあった。
本県では・明治五年七月に、千葉、行徳、松戸、東金等主な都市に郵便取扱所が設けられたが、長生地方では、茂原、一宮、長南の三か所だけだった。(1)以後、次第に普及し、同七年には、下総五六局、上総三九局、安房一五局となった。
郷土には明治一〇年(一八七七)頃から六地蔵・長柄山・味庄・鴇谷の四局が開設されているが、当時の資料に乏しく、詳細を明かにし得なかったが、たまたま、この方面の研究家蒔田聡夫氏が「郵便紀行」(2)に明治初期の長柄町における郵便局について優れた見解を発表しておられるので、氏の同意を得てその一部を町史に載せることにした。同氏は、『郵政百年史』(3)の編集にも携さわられ、郵政の研究に詳しく、真名(現茂原市)の生まれである。