吉本重右衛門氏は、天保一二年(一八四一)二月二八日生、大正一一年八月一六日死去、長柄山八三八番地に住み局長就任三九歳。同氏は嫡男に恵まれず、女子系の後裔たる吉本重徳氏がその近くに現住し材木業を営んでいる。初代局長は八一歳の長寿を保ったので、局長ポストを本間小三郎氏にバトンタッチしたのは、老齢の関係によるものかも知れないが、その事情は明かでない。本間小三郎氏は当時戸長役場の書記を勤め、初代長柄山の区長となり、部落の農地払下げ等に尽力し人望が厚かった。
局舎は、初め玄孫義郎氏の宅にあったが、その後追分の現岡本春吉氏宅地に移った由。明治三〇年(一八九〇)房総東線が一宮まで延長され、長柄山―長南間の逓送が廃止となり、長柄山局の重要性が低下したので、明治三一年一〇月一日局を六地蔵に移転。局名はもとのままとし、局舎は長沢家宅を使用したようである。この時の局長は『逓信公報』(4)(明治三一・九・二二・公示)によると、長沢俊雄氏であるが、その就任年月は明かではない。ただ、俊雄は、明治三二年七月五日に死去しているので、その後任が四代長沢重三(三千雄の改名)である。しかし、同氏は、健康すぐれず、同三五年六月局を刑部の村上光之助宅に移転。刑部局と改称、同氏が局長に任命された。