「郵便局のことは聞いたことはない。家は、大地主で酒造業を営み、千坪近い屋敷に、まず豪華な長屋門、それを入ると左方に土蔵と酒蔵、そして正面に大きな母屋があり、屋敷の周囲は槇塀をめぐらしてあった。長屋内には、かなり広い座敷があって、一時駐在巡査がいたり、学校の先生が下宿していたこともあった」。
局舎の伝承を聞くことはできなかったが、長屋門の話しから、ここが郵便局の事務所だったと想像される。巷間、鼠坂下に局舎があったのではなかろうかと言われるが次の郵便路線図を検討の結果、覚慥宅説に妥当性がある。即ち、明治四年(一八八一)の路線図と、六地蔵味庄局廃止後の明治二〇年の路線図を較べてみると、約二町(二一八米)の差がある。この差は、何によるかを考えると、六地蔵局は街道沿いなので、味庄局が街道からはずれていた為の距離差であろうと思われる。また、鼠坂から覚慥宅まで歩いてみると、ほぼその位の道のりであることが解るからである。更に驚いたことは、この小局の郵便区が、長柄だけでなく、旧豊田村方面まで広がっていたことであるが、これについては項を改めて述べる。
郵便路線図 (逓信博物館蔵)