これが明治四年(一八七一)になると、郵便規則に、一時(二時間)五里(二〇キロ)の速度と定められ、同六年には、三つの区分を設け、飛行(五里又は四里半)急行(四里又は三里半)常歩(三里)として、二四時間制を実施している。また、東京からの到着日数を公表しているが、その一部をみると、表の通りで、本県は、三日以内位の範囲に入るのではなかろうかと思われる。言う迄もなく、これは、汽車のない時代のことである。
郵便到着日数表(『明治文化史』生活編) |
日 数 | 主 な 都 市 |
当日着 | 横 浜 |
翌日… | 小田原 木更津 |
3日目… | 水 戸 静 岡 |
4 | 名古屋 福 島 |
5 | 兵 庫 大 阪 仙 台 |
6 | 奈 良 和歌山 |
7 | 岡 山 徳 島 盛 岡 |
8 | 広 島 高 松 新 潟 |
9 | 福 岡 青 森 |
10 | 長 崎 佐 賀 |
11 | 大 分 熊 本 |
13 | 鹿児島 |
14 | 都 城 |
さて、ここに明治二七、八年頃の二枚の「はがき」と、六枚の配達速度を示した表がある。その発信と受信の日付をみると、武蔵東京から長柄山までは、その日のうちに着いている。どんな道順を通ったのかよく解らないが、鉄道の開通は、東京千葉が明治二七年(一八九四)七月で、大網までが同二九年一月であるから、汽車便としても千葉迄でその先は徒歩で運ぶしかない。船便で浜野まできてもやはりその先は徒歩である。それにしても、近距離では現在と殆んど変らぬスピードになっていることに驚くのである。
ところが、更に驚いたことには、遠距離である。北海道と大阪からの配達所用日数である。まず、北海道長沼戸長より差出の分は、明治二九年五月一九日引受(イ便)、二二日長柄山局配達で所用日数僅か四日である。現行の「郵便路線図」をみると、長沼局は札幌局の東方三三粁(九里余)民間自動車託送便で逓送しており、明治二九年頃東北本線は全通(明治二四年)していたが、北海道の鉄道は、札幌以南が全通していない。札幌、小樽間が明治一三年、小樽、函館間が明治三七年の開通。しかも青森迄は、青函連絡船の介入もある。このような僻遠の地から交通不便の時代に、四日で到達することは、まさに驚異的であると言えよう。因みに、長沼局は、明治一三年までの局名表にはなく、その後の設置である。
はがきの配達速度 |
発 信 | 受 信 | 所用日数 | ||||
差出人 | 局名 | 受付日付 | 受取人 | 局名 | 到着日付 | |
国府関の人 | 茂 原 | 明23.2.5 | 刑部の人 | 長 柄 山 | 明23.2.5 ロ 便 | 当日着 |
東京三度内堀町 | 武 蔵 東 京 | 明27.12.10 ロ 便 | 刑部の人 | 長 柄 山 | 明27.12.10 ハ 便 | 当日着 |
八幡の人 | 八 幡 | 明27.6.28 ハ 便 | 刑部の人 | 長 柄 山 | 明27.6.29 ロ 便 | 翌日着 |
鴇谷の人 | 長 柄 山 | 明28.1.1 ハ 便 | 刑部の人 | 長 柄 山 | 明28.1.1 | 当日着 (年始状) |
北海道長沼村民 | 長 沼 | 明29.5.19 イ 便 | 長柄村長 | 長 柄 山 | 明29.5.22 ニ 便 | 4日間 |
大阪府歌垣村長 | 地 黄 | 明30.7.29 ハ 便 | 長柄村長 | 長 柄 山 | 明30.8.1 ロ 便 | 4日間 |
(内藤泰雄家・長柄村役場蔵) |
次に、大阪府歌垣村民差出分は、明治三〇年七月二九日、地黄局引受(ハ便)八月一日長柄山局配達、所用日数四日で前者に対し遅いようだが、歌垣村がまた大変な僻陋地。大阪府の最北端で、昭和三一年九月三〇日他の田尻、西能勢の二村と合併して能勢町となり、また現に無集配局(地黄局より二・七キロ)もあるが、この葉書の逓送路を考えると。
地黄局―(五里) 池田局―(二里) 桜塚局―(一里二丁)―三屋局―(二里) 大阪局、それから東海道線で到来したと思われる。右のうち桜塚と三屋は現在その局名なく、地図の位置から桜塚は豊中、三屋は吹田と推察される。ともあれ、地黄大阪は一〇里を越えるのであるから、このスピードも前者に劣らぬすばらしい速さと言えよう。
なお、スタンプにあるイ便、ロ便は、第一便、第二便の意である。明治初期、東京横浜間の郵便に最多一二便(イ・ロ……ル・ヲ)までであったというが地方では、四・五便(イ・ロ・ハ・ニ)が多かったという。
その後、昭和四年(一九二九)から航空郵便の取扱が行なわれ、同一二年には、速達郵便を全国に実施し、遠距離への信書の伝達は益々スピードをましてきた。
近代郵便が発足して僅か百余年、「より早く」というねらいは、見事に達成されたといえよう。