安価に―郵便料金のうつり変わり

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江戸時代、大津倉、金谷、田代は、旗本大久保八郎左衛門の知行地であったが、大久保氏が幕府から千両近い借財をし、それを知行地の村々に支払わせようとした。そのため、村役人のところへ代官所から上納の催促のため「日々差紙飛脚罷越」という状態で、その飛脚賃などが村財政に大きな位置を占め、「弥々上納ニモ差支」えるようになったと飛脚賃の高価なことが『茅ケ崎市史』(8)にみえる。文政五年(一八二二)頃のことである。
 明治の初め、駅逓権正(ごんのかみ)となった前島密が、東京と京都を往復した公文書などの運送費、即ち飛脚屋へ支払うべき金額を調べたところ、月額およそ一千五百両、年間一万八千両にも上ることがわかった。(9)このように飛脚賃が高くては、一般人にはとても利用できるものではない。そこで考え出されたのが、「新式郵便」の制度である。「新式郵便」というのは、既に、アメリカ等で実施されている「ポスト制度」のことで、書状の表に、国家が発行した賃銭切手をはり、一定の箱(ポスト)に入れさえすれば、国家の手で、宛名の所まで間違いなく届けてくれる仕組のことである。
 この制度を取入れようとした前島密は、東京―京都間の料金を次のように概算した。即ち飛脚をリレーして走らせれば、およそ三日で達する。その人件費は雑費を入れても一回三〇円(当時の運賃で三百貫)には達しない。
 一日三百通を送るとすれば、一通およそ九五銭となる。このことから、更に数をまし、東京―京都間往復をすると考えると、一通一四銭位にしても十分採算がとれるだろうと考え、新式郵便にふみ切ったと言う。上の表は、新式郵便による、封書とはがきの郵便料金の変遷を示したものである。最初は、距離制を採用したが、次第に書状の数も増してきたので、全国均一制に切りかえられ今日に至っている。なお、郵便料金は、初め「郵便賃銭」といい、明治元年四月、「郵便税」と改称、これは、長い間続いた。なお、内藤三郎平宛(前掲)封書に「税済」とあるものは、後の約束郵便、「料金別納」に相当するものである。
 
主な郵便料金の変遷(郵政100年のあゆみ,郵政省による)
年 代封   書はがき備   考
明治
 4. 3. 1
最低百文,最高1貫5百文
(例)
東京から神奈川百文
 〃  大阪1貫5百文
(1)最初料金は距離別による
(2)4年5月新貨条令で両・貫・文を円・銭・厘とする。百文は1銭1貫は10銭となる。
(3)5年末に太陽暦採用,50・12・3が6・1・1となる。

 6. 4. 1
2匁までごとに 2銭全国均一料金制となる。当時米1升(1.5kg)4銭,現在約4百円

 6.12. 1
1銭はがき発行さる。はじめ薄紙2つ折であったが,8年5月厚紙単片となる。

32. 4. 1
4匁までごとに 3銭1銭5厘
昭和
12. 4. 1
20グラムまでごとに 4銭2銭
22. 4. 1  〃     1円20銭50銭
23. 7.10  〃     5円2円
26.11. 1        10円5円
47. 2. 125グラムまでは 20円10円
51. 1.25  〃     50円20円
56. 1.20        60円30円

 
 さて、この表をみれば、飛脚時代とくらべて、如何に安価であるかが知れよう。このため、郵便の数は、日を追って盛んとなり、日清・日露の両役後はまた一段と盛んとなり、各方面の施設も整った。
 次に、水上局の発展の姿に目を転じてみよう。