当局の郵便区は (イ)旧長柄村の平野部(下郷味庄、舟木、国府里、力丸、千代丸の五地区)、(ロ)旧二宮本郷全域国府関・芦網・庄吉・真名・押日・山崎・黒戸の七地区)、(ハ)旧豊田村の一部(大登・長尾の二地区)、すなわち、明治二二年四月の市町村制実施前で言えば、一四ケ村に及ぶ広範囲であった。当時自転車もないこの僻村からどうしてこの広範囲を集配したか疑問がもたれるが、前述の石井さんの話によると「覚慥家の前の小径をあがって東行し、山越しすると真名の西谷に出る。これは真名・黒戸・大登・長尾への近道で、郵便配達には極めて便利だ」という。往年の味庄局員は、この間道を通って大登方面へ集配したと想像される。
さて、味庄廃局によって、前記(イ)は長柄山局(追分所在)へ、(ロ)は黒戸を除き茂原局へ、(ハ)は黒戸と共に本納局へ分散した。(黒戸は後に二宮本郷村の一部として茂原局区内となる。)