寛永一七年(一六四〇)宗門改役をおいた翌々年の寛永一九年に尾張領は領民心得として「条々」一二か条の法度をだしている。この条々は、承応二年(一六五三)に一五条、寛文七年(一六六七)には二一か条になっていく。いずれの場合も、第一条は、諸事について、公儀の法度をかたく相守るべきこととして、幕府の諸法度を守ることをいっている。第二条はいずれもキリシタン禁制についてであり、大略つぎのようである。
一 きりしたん宗門の儀 公儀御禁制のごとく いよいよ守り その旨御領分 在々所々の町人 百姓男女 下人などに至るまで その町の肝煎 五人組 その村の庄屋 与頭(組頭) 五人組 常々油断なく 宗門あい改めつかまつり 若しうたがわしきもの これあれば 御代官所は その代官 給所は その給人へ申届すべし 告げ来るにおいては ごほうび下さるべきこと
としている。幕藩体制にとって、キリシタン取締りのための「宗門改め」が最重要の方針、政策であることがわかる。従って岩村領の領民心得=条々(元禄一六年 分家松平氏入城して)も同様で、この場合は第二、第三条にわたって、つぎのように大略あげている。
一 きりしたん宗門弥々入念相調べ 庄屋組頭 常々心をつけ 不審なるもの これあるにおいては 早速申出るべき事
一 宗旨改めの儀 村中五人組切りに妻子 召使(めしつかい) 借屋の者まで 残らす宗旨を帳面にこれを記し 寺社奉行 差図次第 指出す事[傍点筆者]
としている。
つまり、宗門改めは、幕府の最重要策として幕領はもちろん諸大名領などにも指示したので、各大名にとっては、年貢上納と共に宗門改めは重要な事項であり、これを十分に遂行することが大名としての条件だったともいえる。しかし、時代が下るにつれて、形式としての重要性は残るが、キリシタン信者は一掃されていくから、宗門改めは戸籍改めの機能をもってつづけられた。