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管理番号一一
遠山家文書史料九三
1 画像(翻刻付)
霧ヶ城記 全
2 画像(翻刻付)
東美濃惠那郡遠山之庄岩邑霧ヶ城ハ水
晶山ノカタワラ信濃国ノ山々續キ前ハ尾張ヲ見
渡シ高サ一里斗リ日本三ツノ高山城也[和刕高座信刕高遠]
後鳥羽院御宇文治之比鎌倉源二位頼朝公寵
臣加藤治景廉ト云人恐レタリ故ニ内城ニ景廉ノ
祠有又第二ノ門ヲ圡岐門ト言是ハ圡岐ト云所ノ城
ヲ亡シテ取来テタテタリト云此城ヲ霧ヶ城ト言事山
深ク谷多ク松柏モ茂リ草竹重リテ山川ノ氣常ニ
3 画像(翻刻付)
立ノホリテ霧ト成城ノ見エヌ事日々夜々度々也故霧
ヶ城ト言トソ又一説ニ昔ゟ敵向時霧立隠レテ敵ニ
見セヌ故敵責落ス事ナシ故霧ヶ城ト言是ハ景
廉之祠有ニヨリテ此神ノ守護スル故也ト所ノ者ハ
言ヘトモアナカチニ敵ノ來ル時斗リニモアラス不断
霧深ク又ハ雨繁ク余所ハ降ラ子トモ此辺ノ雨度々也
是ヲ岩邑ノ私雨ト云也景廉ノ祠ハ今城内ニ八幡大神
トアカムル也此祠ニ景廉ノ木像有之鎧壹領有札ハ
鐵ト鯨ノ鰭ト一枚宛重子下地ハ朱塗ニメ是上ヲ黒ク
ヌリ八幡黒ノ革ニテ綴リタルモノナリ中古已來ノ物
ニテハ無シ景廉ノ鎧ナルヘシ城ノ上ヨリ見エル山々ハ加
刕之白山江刕之伊吹當国ノ恵那山信州ノ駒ヶ嶽
同御嶽飛刕ノ乗鞍ヶ嶽三州猿投差渡シ各
數十里宛也
一 恵那郡ト云事恵那山ト云ヨリ出タル郡ノ名也
天照大神ノ恵那ヲ納タル所ユヘ如此付タル也
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一 遠山之庄昔ヨリ此辺之惣名也近代之人誤リテ加
藤治ノ住マレタル故ト申ハ本説ニアラス頼朝公ノ初メ
ノ比木曾義仲ノ菊ト云フヲ美濃遠山ノ内一村ノ
主ニスルト云事ハ東鑑四寿永三年ノ比元暦ノ比
ニ有遠山ヲ氏トスル事景廉ノ子景朝代ヨリ
那リ天モ遠山ノ加藤左衛門尉トアタ名呼タル也
一 水晶山ハ霧ヶ城ノ東ノ高キ山也砂ノ内ニ水晶有
一 土岐ハ岩邑ヨリ五里有郡ノ名也昔ヨリ源三位
頼政ノ子孫居ラレタリ頼遠ト云塚郡内中嶋ト
云フトコロ六兵衛ト言者ノ境内ニ有之門前ニ五輪六
七有頼遠ヲ定林寺殿ト云土岐郡ノ内ニ定林寺村
ト云ハ其寺ノ跡ナリ今ハ寺無土岐ハ昔ノ邑名ニテ夫
ヨリ郡ノ名ハ出タリ其後土岐氏之出所ナリ中嶋ハ
仙石氏ノ出所ナリ其後土岐邑ヲ改テ神箟ト云事
ハ土岐ノ城山ニ一鎌箟トイフ生ス是頼政ノ鵺ヲ射タル
矢ノ箟ノ出タル山也自然ニ箟ノ節數モ太サモ
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揃フテ竹二本一所ニ生スル是ヲ一鎌箟ト云故ニ神
箟トハ近代付タル也
一 近年霧ヶ城ノ事書タル書ニ當地建立ハ承治已
後成ヘシ清盛ノ時代ナレハ凡七百年内六百餘年
ト此説相違ナリ承治トイフ年号ナシ治承ヲ
誤タルヘシ是モ又誤ナリ治承ノ比ハ父景員サヘ
伊勢ノ祭主ノ家司也後頼朝天下一統ノ時ニ申
賜リタリ然トモ西國合戦迠ハ天下ノ武士西国ト
鎌倉ニ誥タリ殊ニ景廉ハ西国ニ有平家皆亡タ
ル事元暦二歳三月ナリ元暦ニハ八月改元有之テ文
治ニ成ル文治元年ニ諸候國々ノ暇給リテ始テ
帰ル此時景廉モ霧ヶ城ヲ築ナルヘシ然ハ享保
十四年迠文治元年ヨリ五百三十三年ニ成七
百年内ト書和俗説成
加藤遠山景廉系圖譜
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藤原景員
伊勢太神宮祭主從二位大納言能隆郷家司加
藤五ト号ス平治ノ乱ニ左馬頭義朝臣ニ随テ
度々合戦有後ニ左馬頭清盛ニ討負尾張ノ
野門ト云所ニテ殺サレ給フ故又伊勢ヘ帰リテ子共
ヲ介抱ス惣領ヲ加藤太ト云次男ヲ加藤治ト云其後
兵衛佐頼朝伊豆ノ国ニマシマス由ヲ聞先次男加
藤治ヲ見舞ニ遺ス其後相模ノ國ニテ義兵
ヲ起サル由聞テ惣領加藤太同道シテ石橋山ノ合戦
ニ与力シ頼朝負給ヒテ後箱根梺走陽山ト云寺
ニ入テ出家ス後頼朝世ニ出給ヒテ後伊勢ノ
國ヲ下サル
嫡男 光員
加藤太ト号ス石橋山ノ合戦ニ頼朝ニ随フ後父
景員ノ家督ヲ續テ伊勢守ニ成ル
景長
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六良ト云兵衛尉ニ成又タ左衛門尉ニ成從弟景
朝マタ左衛門ニ成故ニ伊勢之加藤左衛門ト云
次男 景廉
加藤治ト云後左衛門督ニ成後白河院御𡧃保
元ノ比伊勢國ニテ生ルゝ人景員平治ノ乱ニ討モラ
サレテ又勢刕ニ帰ル治承ノ比頼朝伊豆ノ國ノ
配所ニマシマス由聞テ景廉ヲ遺〆尋シム景
廉伊勢ヲ立時𡧃治橋ヲ通リケルニ一人ノ百姓
ニ逢百姓ノ曰ク我ハ東美濃遠山ノ庄山上邑長
則山上氏ト云者也抑山上邑ハ山深シテ人ノ知ル事
ナク隠レ住ケルニ近年天下乱テ盗人ハヤリ山上
邑ヱモ盗人入テ難儀スル付 太神宮ニ
籠リテ守護ニ成ヘキ人ヲ得サセ給ヘト祈ルニ夜
前シカ々ノ御夢想有テ今日下向仕所ニ貴辺
行逢奉リ見奉レハ只人トハ見ヘス井サラハ東
美濃エ立越テ村民ヲ守護シ給ヘト申ケル故加
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藤次トモナヒテ東美濃山上村エ行テ逗留スル事
數日夫ヨリ伊豆ノ国ヘ行也今山上村ニ景廉ヲ
置奉リシ大石并屏風石ト云有右之山上村紋
所九ニ二ツ引ヲ附ル是遠山氏ノ紋同シ景
廉伊豆ノ國ニ至ル八枚ノ判宦兼隆ヲ夜討ノ時頼
朝銀ノヒル巻シ銀ノホラノ目貫打タル長刀ヲ
給ワル則比長刀ニテ八牧首ヲ切テ帰リ頼朝
ニ見セ奉ル也其後石橋山ノ合戦ニ討モラサレテ
冨士ノ腰ニ隠シ居黄瀬川ノ戦ニマタ頼朝ニ随ヒテ
功名ヲ至メ治承四年十月廿三日頼朝伊豆相模
ヲタヰラケテ鎌倉ニ居所ヲ定メサテ軍功有シ人
々ニ或ハ平家ノ代ヨリ取來タル本領ヲ其儘案
堵シ又新規ニ知行所ヲ給ルカ景廉ハ前ニ東
美濃遠山ノ庄ヲ申給リケル元暦ニ西國合戦
ニハ西国ニテ病氣故功名無シ建久四癸丑五月廿八日
冨士野牧狩ニモ兄弟供奉ス然ル所曽我兄弟祐
9 画像(翻刻付)
經ヲ夜討ニメ夫ゟ御所ヘ切入加藤太ハ手ヲ負ヒ
景廉ハ無恙文治ノ始天下平ニ成爰ニオ井テ国
々ノ大名ニ暇ヲ給リテ代リ々國々エ帰ル景廉
モ御領ノ遠山ノ庄ヘ入部也
一 建久十巳未年正月頼朝薨ス頼家将軍
タリ建永元七月頼家隠居實朝将軍タリ
父子三代景廉親臣タリ建保七巳卯年正月景
廉検非遠使從五位下左衛門太夫判官ニ成
同廿七日實朝鶴岡社参景廉其外非常ヲイマ
シムル所ニ夜ニ入テ頼家ノ子公暁ト云阿闍利鶴岡
ノ内ニ有ケルカ實朝ノ首ヲ切景廉ニ切入ヲサカセトモ
知ル人ナシ夜ノ暁ニ北条家来尋出シテ是ヲ殺ス右
ニヨツテ景廉道中五日ニ上京シ一日逗畱又鎌倉
ニ帰リテ入道シテ覺阿坊妙法トイフ實朝死去
ノ後左大臣藤原道家卿ノ御子ヲ二位ノ尼養子ト
メ将軍ニ任ス承久三年巳八月三日寅刻前検
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非遠使從五位下行左衛門少府藤原朝臣景
廉法名覺阿坊妙法濃刕遠山之庄ニテ卒ス年
六拾六霧ヶ城之内ニ葬其所三祠ヲ立テ是ヲ祭リ
八幡大神ト諡ス
一 景廉一生ノ事東鑑所々ニ見ヘ源平盛衰記ニモ
見エタリ
一 俗書ニ遠山判官ト有景廉ノ子景朝ノ時ニ光
員ノ息男景長モ左衛門尉ニ成景朝モ左衛
門尉ニ成何レ茂加藤氏ユヘ紛ルニ付テ景長ハ伊勢
ニ住スル故伊勢加藤左衛門尉ト云景朝ハ遠山
ノ城主ユヘ遠山加藤左衛門尉ト云東鑑ニ見エタリ
景廉ハ只加藤判宦又ハ大夫判宦景廉ト東
鑑等ニ見ヱタリ景廉子孫ニ至テ遠山ヲ名字
ニスル事ハ景朝ゟ初タリ
一 同書ニ京都ノ守護トメ廷慰ニ任スル有誤リナリ
京都ノ守護ハ義經より後ハ建武ノ初迠北条家より
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貳人宛相誥タリ是ヲ两六波羅トイフ景廉
京都守護タル事ナシ頼朝ノ供奉ニハ上洛ノ度々
ニ上ラレタリ奥州責等ニモ供奉也是等ハ委シク
東鑑ニ見ユヘシ
此書ニ京都ノ守護ハ義經ヨリ後建武ノ初迠北条家ヨリ相誥タリト
然レトモ頼朝公ヨリ實朝公迠三代四十二年ノ間ハ北条家ノ政道ニアラス北条
義時ノ代ニ至テ承久三年ニ初テ洛中ニ两人ノ一族ヲ居テ两六波羅ト号
メ西国沙汰ヲ取行ハセ京都ノ驚衛ニ備フト太平記ニ有リ然ハ承久迠
ハ大名交代メ京都ノ守護スルナルヘシ此書ノ説信用シカタシ
一 同書ニ景朝公御門ノ院ノ御宇承治ノ比ノ人ナリ
清盛法阿ヲ追討スル時父子合戦ニオモムク事有ト
是誤リナリ王代記ニ高倉院安德天皇後鳥羽院
ト見エ給フ然ハ安德帝ゟ土御門院ハニ世隔リ給フ
又土御門ノ院ノ御宇ニ承治ト云フ年号ナシ正治
ヲ誤リタルニヤ然ハ又清盛トハ時代ニ拾五年モ相
違セリ又治承ノ乱ニテ見ル時ハ景廉保元之
生レナレハ平治之乱ニハ二三歳成ルヘシ頼朝ノ代
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ニ成テハ清盛死後之出陳也
景朝 景廉ノ一男
三郎ト号ス左衛門尉ト云遠山左衛門尉ト称ス
是従弟景長ニ紛ルゝユヘナリ後大蔵少輔又大
和守伊豆ノ守ニ成後土御門院御宇元久三年
巳年關東ト京都ト戦有宦軍宇治橋ヲ引テ
戦フ然レトモ宦軍打負テ大将一条ノ宰相之中将
能信ト云人ヲ生取リテ京都ニ預ケテ美濃国
遠山ノ庄エ遺シ首ヲ切ラセラルゝ今ノ相原若宮八
幡ト云ハ能信ノ祠ナリ此所ニテ首ヲ切テ土中ニ埋メ
其上エニ祠ヲ立テタル也宝治元丁未年八月廿三日壬申
従五位上行伊豆守藤原朝臣景朝濃刕恵那
郡遠山之庄ニテ卒ス同所武並山ト云ニ葬サル祠
ヲ立テ祭ル武並大権現ト諡ス歳四十五
一 俗書ニ景村ト云アリ誤リナリ東鑑ニ景朝一男景
義二男トアリ惣而加藤景村ト云ナシ若狭治郎
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景村ト云アリ是ヲ誤リタルヘシ
一 景朝一代東鑑ニ委ク見エタリ
一 東鍳ニ景朝死去之年廿五ト有リ遠山ノ庄ノ
傳ニハ四拾五ト有二拾五ニシテ見ル時ハ承久三年□
□以前也四拾五ニシテ見ル時ハ八十七歳也今遠山之傳
ニハシハラク隨テ記之
武並山丈並山ニ説有景廉ノ氏族打ナラヒテ所
々ニ有シ夫ヲ所ゝニ祭ル故ニ武士ナラフト言心ニテ武並
ト云ト云説有又諸山ヲ離レテ一山之別峯アリ脇ノ山
々ニ丈ノ高サナラヒテ高シト言心ニテ並山ト云説
有又霧ヶ城八幡武威ニナラフト云説ハ誤リナリ
所々丈並ハ跡ニ祭タルヘシシカラハ先エ祭タル宮ニ跡ニ
祭タル名ヲ付ヘキノ儀ナシ丈並山ニ祭リテ八幡ニナ
ラフ故丈ヲ武ト書替タルヘシ
一 遠山霧ヶ城ニ二説有敵竒ル時霧深クニ見ヌ夫
故霧ヶ城ト云説有又古ヱ桐ノ中将ト言人流レテ
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居給フ古跡故桐ヶ城ト云説有桐ノ中将ノ説ハ俗説
成ヘシ景廉以前ハ山陰人知ル事ナシ依而考ルニ東
鑑ニ宰相之中将ト記シタルヲ相ト桐ト見違タルへシ山
深ク谷通リ山川ノ氣常ニ登リテ霧深ク加クル所
ナレハ霧カ城ト云説シカルヘシ
景義 景廉二男
七郎左衛門ト号ス東鑑ニ出タリ子孫ノ事東鑑ニ
詳ナラス
行景
景朝ノ男三郎ト号ス從五位下左衛門尉ニ任ス
宝治元年伊豆守景朝卒シ跡續ス
一 東鑑丗ニ以後所々ニ見ヱタリ然レトモ東鑑弘長以
後ナシ又後太平記ニ行景ノ事見ヘス故ニ建長
ニ京都築地ヲ作リテ進上申タル以後ノ事見ヱス
景經
行景男三郎ト号ス左衛門尉ト云六位也建長ニ御所
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ス東鑑ノ未ニ加藤六郎兵衛尉景廣ト云有彌左衛門
尉ニ成ニ疑ラクハ伊勢ノ加藤景長ノ子成ヘシ故ニ粉
ハクシ依而畧シタリ然ラハ建久已前ノ人也時代甚相
違ス
某五歳ニテ死
頼景之男母ハ織田上総助信長ノ伯母天正之初
継父秋山伯耆守殺シテ霧ヶ城ヲ奪ヒ取此時
景廉ノ嫡家絶タリ
参河後風土記ニ曰ク岩村實子ナキ故信長ノ息男御坊ヲ養子
トス元亀三年十二月岩村卒シ御坊幼少ナレトモ兼約成ハ家督メ居住ス
ルニ甲州ヨリ秋山伯耆守多勢ニテ岩村ヲ攻レモ不陥秋山ハ岩村カ後
室ヲタフラカシテ云様ハ其未定タル妻ナシ足下ヲ妻トメ御坊ヲ
養子トシ吾城主ト成テ御坊ヲ守立ト申ケルハ女心ノ墓ナサ
ハ妻ト成ヲ悦テ城ヲ渡ス秋山受取テ後家ヲハ妻トシケルカ
羪息御坊ヲハ申州ヱ遺シ信長ノ人質ナリト沙汰シケリ天正
三年信長ハ長篠軍ニ利ヲ得皈陳ノ後息書羽介信忠ヲ
大将トシテ六月上旬大軍ニテ岩村エ押寄ル城兵二千余命ヲ不惜
防キケレハ數日攻レトモ城落ス然トモ城中粮尽キ次第ニ飢ニ監之後誥
モ來ラ子ハ秋山大嶋座光寺降参メ信忠城ヲ受取テ三人ヲ擒トシ
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信長エ進シケレハ信長大キニ悦ヒ内々秋山ニハ信長存念有シニ
今本望ヲ達ストテ秋山夫婦ヲ磔ニセラル被秋山カ妻ハ信長
ニハ伯母成ハ是程マテ辛キ沙汰ハ有間敷コト成トモ夫秋山ト一味
シ信長ノ息ヲ甲州エ遣シタル悪シミトソ聞エケリト有然レハ岩村ニ
實子ナキコト必セリ
一 俗書ニ陽軍ヲ引而信長ヲアシマニ書タリ然ルニカラス
故ニ霧ヶ城ノ所ニテ徃古ヨリ歒近付時ハ霧
深ク終ニ落城ナシト記又信玄責落スト甲陽軍
ヲ引而記ス相違ナリ甲陽軍ニテ信玄アシキコト
ナシ是等ヲ合續テ三河後風土記ヲ見合ヘシ
後風土記サヘ家々ニ書チカヘテ所趣ナラス是
モ平岩親吉之選善悪ヲ覆ワス正シク書レ
タリ是ヲ證トスヘシ岩村ヲ信玄落サレタル事
ハ伯耆守武畧ヲ以テ大舩寺頼テ扱ニテ取
タル也信長モ又扱ヲ拭テ取返サレタリ岩村
殿ノ後家織田掃部行煎ヲ以テ伯耆守
婚礼ト成マタ岩村ヲ責落スト云事相違也皆
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甲陽軍ノ説之一圖ニ用コヘキニアラス俗書之如ク岩
邑殿ノ後家信長ノ差圖ニ任セテ伯耆守ト
婚礼アラハ何ノ咎メ有テ一所ニハリツケニハカリヘ
キヤ掃部行煎ニモアラス信長ノ指圖ニモア
ラサル事ナリ
一 俗書ニ霧ヶ城ノ播屏トメ苗木ニ遠山勘太郎
明照ニ同久兵衛明知ニ同与助飯羽間ニ同右衛
門串原ニ同彌左衛門其外大井久須見佐々
良木藤阿木野井曾木ニ遠山ノ氏族多シ皆霧
ヶ城ノ八幡ヲ勧請シテ武並ト号スト云ト此説モ相
違タル歟甲陽軍ヲ考レハ岩邑其外東美濃信
長要害ノ城テ十八攻落シ給フト有又勝頼攻
落サレシ城々ハ苗木カウノ武節井マミアテラマコ
メ大井中津川ツルミリウ田セトサキフツタクシ原
明知飯羽間トモ有何モ本説ナリヤ分明ナラス
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一 俗書ニ伯耆守居城ハ信刕高遠也ト有誤ナ
リ岩邑ヲ攻取テヨリハ則伯耆守岩村居城ナ
リト甲陽軍ニ見ヱタリ
一 甲陽軍鍳信長記三河後風土記等ヲ以テ考ル 註・甲陽軍鑒=甲陽軍鑑
ニ加藤ノ末遠山ヲ氏トス天正ノ初迠遠山ノ庄
ヲ相續シテ遠山左衛門尉頼景ト云則織田
信長ノ伯母聟ナリ男子壱人有此男子五
歳ノ時頼景病死ス母及家臣介抱シテ後家
此男子ニ代リテ城ヲ守リ民ヲ治メタリ 天正二戌二月
信玄信刕根
羽平谷ノ方ヨリ美濃國遠山之庄ニ責入
但シ信玄ハ根羽ニテ死去成乍然隠置キ存生ノ分也
此書ニ岩邑ノ城主ハ遠山左衛門尉頼景ト有一人ノ男子
有ト信玄岩邑ヱ責入ハ天正二戌二月ナリト有然トモ三河後
風記ニ天正元年三月十九日勝頼大軍ヲ卒シテ東美濃
ニ動ク爰ニ岩村ノ城主ハ信長ノ伯母聟成シカ去年死去
實子ナキ故信長ノ五男童名捨坊ト云シヲ養子トメ家
督ヲ継セケリ然ルニ信玄ノ家人秋山伯耆守大兵ニテ岩
邑ヲ責メ和睦メ城ヲ受取時秋山岩村カ後ヲ賺シ秋山カ妻
20 画像(翻刻付)
ニシ彼捨坊ヲ摛ニメ信玄エ遣ス間之織田家之家臣等憤リヌル事限ナシ
然レトモ天正九年勝頼滅亡ノ時尾刕ニ皈リ元服メ織田源三郎
勝長ト名乗尾刕犬山ノ城主ト成レリト有又長久手戦考記ニ
元亀ノ初尾刕犬山ノ城三万貫ノ地ヲ添エ池田勝三郎信輝ニ陽シ
カハ夫ヨリ城主シテ至天正九年居城トセリ信長ノ五男織田源三
郎初ノ名ハ御房丸東濃刕岩村ノ城主遠山景任ノ養子トナリ
景任卒去ノ後武田ノ臣秋山伯耆守調略メ入岩村城ニ景任ノ
後室ヲ我妻トシ御坊丸ヲ媒テ甲刕エ遺シ偽テ信長ノ人質
ト称ス後甲刕ヨリ皈リ織田源三郎ト号ヲ質ニ取テ犬山ノ城ヲ
渡シ我身ハ大垣ヲ居城トセリト有然レハ岩村ノ城主ハ遠山景任
トイエル事實子ナキ事必然タリ此書ノ説信用スルニタラス
明和苗木串原飯羽間其外岩邑ノ別レノ城々
ヲ責落シテ岩邑ヲ遠巻ニメ岩邑ノ南方浦山ト
云ニ上リテ[浦山裏山字分明ナラス 岩邑ノ裏ニ有裏山ト云ヘキ■]城中ニ向ヒテ矢石ヲ
飛差ム然レトモ間隔テ城中エ届カス只矢玉ヲツイ
ヤス故今其所ヲ号シテ矢漬ト云也夫より岩邑
ヲ取巻攻ル信長モ明知辺迠後誥ニ出トイヘトモ
甲刕勢ニ押ヘラレテ轉リシキ後誥モナシ甲刕
勢モ岩邑高山城ニテ道路馬足ノホラス又山ノ氣
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深ク雲雰雨シケク長陣叶難キヲ見切テ秋山伯
耆守上邑ト云所ニ大舩寺[元明天皇ノ御宇ニ建立有良開基享保十四迠千五百年程成]
弁僧正ノ法印ヲ頼テ彼後家ヲタハカリテ曰今城
ニ主ナクシテヨク頼景ノ跡ヲ守ル事竒転ナリ然
レトモ信玄ノ鉾先強クシテ岩村付城々去拾八一
日ノ間ニ攻落シ給テ今岩邑城斗残リタリ信
長モ此勢ヒテ出テ後誥モナラス途中ヨリ引返
サレタリ然レトモ岩邑一両日之間ニ落城ナルヘシ折
角幼キ子守立岩邑城主ニセン為ニ今日迠防キ戦
ウタルモ無ニ成モノ不便ナレハ何レニシテモ右男子
ニ城ヲ譲ルハ同シ事也暫ク其子ニ代リテ城ヲ
納後家ヲ妻ニメ其子ヲ養子トシテ成人ノ時ニハ
城ヲ其子ニ譲ルヘシ如是ナラハ母子ノ人モ心安家
來百姓ニ至ル迠案堵ナルヘシナト法印ヲ頼テ申
サセケル法卯モ誠ニヤ思ヒケン城ノ裏道ヨリ忍入テ
右之通ヲ再三申聞セケル故後家心動テ伯耆曰
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守ト婚礼シ男子ヲ養子ニマイラスヘキヨシ返事シケ
ルマゝニ夫ヨリ門ヲヒラキテ伯耆守ヲ入ケル伯耆守
ハ信刕先方知久小笠原座光寺杯云与力ヲ同道
メ城ヲ受取テ遠山ノ家來ノ内ニモ同心ナキハ誅シ
ナトメ後家ト婚礼メ一年餘リ暮ス内チ後
男子ニモ段々熟意ニアリシマゝニ後家
ニモ打解顔ニナリ家來百姓迠思ヒ付タルヲ見ス
マシテニワカニ男子ヲ殺メ終ニ城ヲ奪ヒ取ケル此
事信長聞テ立腹シテ翌亥十二月大人數ヲ
以テ押寄セ城下ノ分根カ原ニ陣ヲトリテ岩村ヲ
攻[分根ヶ原ニ大将陣ト云所有信長ノ陣屋ノ跡ナリ]然レトモ落城ナシ故ニマタ信
長扱ヲ入テ日伯耆守ハ信長眼前伯母聟也
一旦ハ持所ニシロヲタハカリテ取給フユヘ心事ヲ得
スヘシ攻ルトヒヘトモ向後ハ貴方ヱ参スヘシ抔ト申
サセ給フ伯耆守モ勝頼ノ後誥モナク放レ
城ナレハ未々持カタキヲ了簡メ扱ノ返事
相違ナクメ極月信長陣所ニ至リテ対
23 画像(翻刻付)
面之時信長武士ヲ伏置セ生取又伯母ヲ生取ニメ
則其所ニハリツケニ上ケル[其跡場所分根ノ入口妙法寺上五佛寺同跡是ナリ]爰ニテ
又霧ヶ城ハ信長ノ手ニ入也川尻肥前守信長
ヨリ賜リテ城主ト自成後遠山氏久城忽他
門ノ手ニ属ス景廉ヨリ已來遠山氏領知之
門 合貮百九拾三年也
一 前書等ヲ考ルニ天正ノ比ハ尤霧ヶ城ハ信長
第一ニ争ハレシ城也信玄ハ信刕ヨリ段々京ヱ
攻上ル為美濃尾張ノ手ツカヒ能所ハ岩村成ユ
第一信玄モ心懸ケラレ信長モ要ノ城
エニ第一ニ大事ニセラレタルカ城主ニ伯母ヲ以テ父婦
トシ腹心ノ人ヲ城主ニセラレタルナリ
一 東鑑ニ遠山治郎左衛門尉景氏ト云人有定
テ氏族ナルヘシ無考所畧之
霧ヶ城由來并遠山加藤世□畢
霧ヶ城主代々記
後鳥羽院ノ御宇文治之始之鎌倉源二位頼朝公寵臣加
藤次藤原景廉築之享保十四酉迠五百三拾年程
24 画像(翻刻付)
文治元ヨリ承久三迠三拾七年
加藤左衛門尉藤原景廉
承久三ヨリ寶治元迠二拾二年
景廉子後改遠山氏
同 伊豆守藤原景朝
寶治元ヨリ天正元迠遠山氏
代々居城此間三百十六年程
遠山左衛門尉藤原行景
同 左衛門尉藤原景經
景經十餘代世孫信長方
同 左衛門尉藤原頼景
或ハ遠山修理亮藤原景任ト有
天正元ヨリ同三十二月二年餘リ
秋山伯耆守
天正三ヨリ同十年迠七年甲刕エ移ル
信長方
川尻肥前守鎮吉
拾二万石
25 画像(翻刻付)
天正十年三月ヨリ六月迠三ヶ月程
五万石
森蘭丸
信長生害之時打死
天正十ヨリ慶長五年迠
秀吉方後石田治部少輔方
二万石 關原御陣以後遁世
田丸中務少輔源具忠
慶長四ヨリ五迠御當城ト此書ニ有關ヶ原御陣ハ慶長四年
ト覺チカヒタルニヤ關ヶ原御陣ハ慶長五庚子九月十五日ナリ
石田治部少輔敗北以後田丸殿ハ岩邑ノ城ニ逃籠羽抜鳥ノ
コトリ籠居ナリ大神君ヨリ苗木木曽久々利三家エ被
仰付岩邑ノ城ヲ受取子十二月受取トモ翌丑正月受
取トモイエリ不詳苗木家陶山次郎兵衛一番乗ト云
傳フ田丸殿降参之卯ニ長刀一振鞍置馬一疋渡サレシ
トイエリ右長刀ハ苗木ノ家ニ有テ毎年土用干ニ田丸殿
長刀トテ出トイエリ鞍皆具ハ木曽久々利ニ送リ届ト
云傳フ然ハ岩村ニハ右三家ノ内ヨリ番士ヲ置ナルヘシ慶
長六和泉守殿御入部ナレハ當城四五ヶ月ノ内ナルヘシ
26 画像(翻刻付)
慶長六辛丑年上野国名和ヨリ御入部
同十九年御逝去御代十四年也
弐万石
松平和泉守源家乗
慶長十九ヨリ寛永十五迠二拾五年
遠刕濱松ヱ移ル
松平和泉守源乗壽
寛永十五三刕伊保ゟ御入部
弐万石
丹羽式部少輔藤原氏信
同
同 式部少輔藤原氏定
寛永十五戊寅ヨリ元禄十五壬午年迠
六拾五年丹羽氏代々居城
同
同 式部少輔藤原氏純
同 長門守藤原氏明
27 画像(翻刻付)
氏音代家中騒動ニ付城地被召上
候上越後国頸城郡ニテ新規三万石被下候
同 和泉守藤原氏音
元禄十五午十二月ヨリ御城主信刕
小諸ヨリ翌七月江戸ヨリ御入部享保
元丙申年十二月廿五日江戸ニテ御逝去
御代十五年ナリ
弐万石
松平兵庫頭源乗紀
享保元御家督同八卯ヨリ若御老中
同二十卯ヨリ大御老中一万石御加増
延享三寅五月八日御逝去三万石
同 能登守源乗賢
延享三御家督御相續松平美作守様
ト申候其年能登守様ト御政寛延元辰
年朝鮮人來朝ニ付江刕八幡町御固寶暦
九卯年三月郡上郡八幡城御受取
干時安永五丙申歳四位四本ニジヨセラル