覚秘集 匏齋子控

覚秘集 匏齋子控 [目録]


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<翻 刻>
 
管理番号 ニ五
 
 遠山文書 番号ニ一七
 
1     画像(翻刻付)

 
匏齋子扣     匏齊=苗木領十一代城主遠山友寿公
 
 覺秘集
 
3     画像(翻刻付)

 
友政公御書
以上
 急度以飛脚申上候
尚々先可申上近旨大喜六御身上相済候由 我等一人     尚々=追伸で行間に後書きされた文章
 大御所様名護屋江十七日ニ被成
今大慶ニ存候 将又(はたまた)我等姫ハ此節ニ候間小兵部殿
 御着雨故十八日ニ御逗留 十九日ニ
屋敷迄進上為申候間 其上内々御次而(ついで)も候ハゝ
 岐阜へ御出陣ニて御座候 拙者式     式=副助詞的に用いる(広辞苑) ワレラシキ コレシキ オレシキ
通御前被 仰上可被下候
 桑名城之御番被 仰付罷有候 何ニ
 而も御用之儀可被 仰付候
 将軍様近日御出馬之由名古屋ニて
 被成御碇(いかり)候 大坂表籠城之仕度
 まてのよし申候 早御先手五六日
 以前ニ平方表ニ御陣取之由申候
 御次ても御座候者可然様被 仰上
 可被下候 尚重而可得貴意候
 
4     画像(翻刻付)

 
 恐惶謹言
      遠山久兵衛
  十月廿日    御書判略之
 
 安対馬守様
    其御中
重副付紙ニ
一我等姫ト有之ハお政様之御コト遠山万五郎殿室
 也 万五郎殿ハ遠山二郎左衛門殿弟ノ由 苗木ヲ暇取
 京都ニテ死去也お政様ハ苗木ニ而死去
一小兵部殿ト有之ハ小笠原兵部殿松本城主
 今小笠原右近将監殿先祖也
一大喜六ト有之ハ覚之人也片足なけ出し
 大久保喜六殿先祖也別而御近付故也
右ノ三ヶ条ハ此御書写ノウラニ記有之 尤付紙也
安永七戊二月九日  鈴木金蔵重副
  金蔵追加
一万五郎殿ハ次郎左衛門殿子息ト有之書記も
 相見候併此張紙至テ古ク相見候間弟ト申方
 
 
 実例(?)可有之候     例=(虫食不詳)
一お政様ハ友政公ノ五番目之姫君ニテ御法名ハ
 玉顔永雪禅定尼 寛永五辰十月十五日
 御死去御墓前何方
 万五郎殿ハ其後浪人候年歴不祥(詳)(ママ)
 正保ノ後カ
一小笠原兵部大輔秀政公至テ御懇ニテ
 御近付ニテ刑部様御烏帽子親也
  兵部ノ部ノ字ト秀政ノ政ノ字御譲リニテ
  刑部秀友公ト御附ノ由也
一大久保喜六様ハ御寄合三千石江戸四谷
 六番町御住居也 大喜六ト有之元文年
 中如件此先祖之ミ尓存候
一安対馬守ト有之安藤対馬守重信
 公其比(ころ)御老中也
右御文言之内此節之間亦尓姫―ト
申文言子細有事 妻女等有之秘し口伝
一通りニテ合点不仕御文言也 是ハ其比之
様子詳ニ存不申而ハ不能察事也
 右重副より借写ス 右奉書二ツ折
 
5     画像(翻刻付)

 
 ナリ 本書在所ハ大極秘口摧
 可伝之ト朱書アリ
  天地浅黄ニシテ(?)中縁風袋白地金入     (虫食い不詳)
  一文字紫地金入 軸象牙
 
 
   急度申遣候
一何も代官庄屋百性ニたいし
 ひふん申節ニかくしおき候て小
 百性ちりく尓仕候ニおゐてハ庄屋
 可為曲事者也
一村々庄屋小百性ニたいし非分仕候ハゝ直ニ
 目安を以可申上候是もかくしおき不申
 上候ハゝ年具等ふさた申ニおゐてハ小百
 性之内にて年寄如何(いかが)しき者可為曲
 事者也
  慶七三月十四日  苗木友政 花押  [友寿曰御判大サ如此]
 
     きりい
          庄屋
          小百性共
 
6     画像(翻刻付)

 
  定
 一永不作之田畠奥方年貢四
 年も五年も可令免許候間
 精を入おこし可申候 其以来之
 年貢も近所之田畠年貢よりも
 可令用捨候并たねしきかし可
 申候いつかたよりも才覚仕百性おひ越
 可申候 為其如此仍如件
  慶長拾年
   正月廿六日   友政判 略
    きりい村
        庄屋
        小百性中
 
 
 前豊州太守義林忠公禅定門
御位牌雲林寺ニアリ古ク相成后年
新タニ装厳被仰付候故古御位牌ハ御取入に
御位牌ノ袖ニ菊桐ノ紋アリ
 小倉猪兵衛 [后猪右衛門ト改兼房] 隠居候後宗融ト
 号此老士先年吉田半蔵兼□□[法号猛岩]
 [玄勇ト号肖右衛門兼能父ナリ]半蔵より猪右衛門年届候咄ニ
 雲林寺銕酸和尚代衆寮有之節駿州
 冨士之清見寺より僧参り居候此僧之咄ニ
 此通之御位牌私共寺ニ有之右之通菊
 桐之御紋有之一向相知不申定めて京都
 将軍家ニテも有之や与存候処此方御寺ニ右
 之御位牌有之少も違無之候と申候由
 夫ニ付御先祖様ニ而無之様ニ心得候もの共有之
 由ニ候可心得事也
  美濃国恵那郡苗木城下天龍山雲
  林寺中寿昌院ニ有之候
  写如左
 
7     画像(翻刻付)

 
御位牌如此
 源高院殿従一品遠山大居士 神儀
 
  水忠威ヨリノ答書
一源高院様初寿昌院ニ御安置之御位牌
 先年火難之節不残焼失
  但右御位牌悉 上より御安置被成候事か
  又者雲林寺三世開山一秀和尚四世玄外
  和尚寿昌院ニ隠居も被致候事其外世
  代之内ニも志儀有之自分ニ奇進
  之儀も有之や不詳
一前豊州公御位牌新タニ御装厳ニ而
 古御位牌寿昌院ニ移有之是も焼失
  但御位牌新タニ御装厳何頃之事か
  不相分
   鉄酸和尚住職者正徳三年より享
   保廿乙卯年七月廿一日於宝林寺
   遷化
   衆寮有之候者享保五庚子秋也
 
 
雲林寺過去帳
源高院殿従一品遠山大居士
  或曰
  大相國徳蓮社一品宗誉道和大居士
 元文二丙辰年四月十七日他界也其後号
 東照大権現日本之主源朝臣松平又徳川
 征夷大将軍家康公
一権現様御位牌今ハ公儀御代々御繰出
 シノ内ニ
  東照大権現トアリ
一前豊州公御位牌御厨子入ニテ御代々
 之通
  右
 
8     画像(翻刻付)

 
  條々     廣恵寺
一山林竹木伐取不可牛馬放飼事
一背寺方悪僧為当役者可有成敗
 萬一不及腕力者従此方可申付事
一寺家門前一切諸役以下免除之事
 右旨於違背輩者可処罪科者也
 如件
  永禄拾弐己巳稔(とし)六月日  直廉在判
 此制札左近佐様御直筆ト申伝候
 福岡邑之古書ニ有之
 御実名
 直廉公ヲ正廉公ト見誤候哉諸記ニ
 左近佐正廉公ト記申候近世高野山
 常慶(ケイ)院過去帳ニハ遠山左近直廉ト
 記有之尤永禄七年ノ記かト覚申候
  此札ヒキウツシ也大キサト尚一紙ニアリ
  是ハ文談計爰へ記シ置候也
 
 
同所棟札
 元亀三壬申歳十一月吉祥日
 藤原姓遠山氏久兵衛尉友勝 再興
 
  心月
東濃ニ有遠山氏ノ一勇夫友政公者(ト云ヒト)
季(トシ)久侍〆大相公ノ幕下ニ凭多カ旌(アラハス)
忠肝義膽朝暮勝戦ノ至功
寔文武ノ之道未タ随地ニ矣加之城ノ
西北ニ撰(エランテ)佳-境ヲ建-立〆一宇ヲ名テ山ヲ
天龍ト名テ寺ヲ曰ク雲臨[一](虫損)ト則(トキニハ)雲門
臨済之宗風振-起セン于茲(ココニ)者(モノ)豈(アニ)
虚発(ハツナラン)乎哉(ヤ)頃(コノコロ)敦(トン)-請(セウ)〆埜-袖ヲ住-持(シセン)
此ノ山ニ公先(サキ)是(コレヨリ)拝〆正伝堂頭維天
 
9     画像(翻刻付)

 
和尚ノ閣下ヲ受(ウケテ)法諱(イヲ)フ宗伝ト而(シカウ)〆
後(ノチ)就テ予ニ索(モトム)雅称ヲ令之ヲ曰心月
其(ソレ)随テ万境ニ転(テンスル)者(ノハ)心也照シ四海ヲ見ル
者(ノハ)月也公宜(ヨロシク)保護(ゴス)ベシ因テ製
加陀一篇ヲ呂テ祝スト遠-太ヲ尓云     尓云=云尓(うんじ)=しかのみ
義膽忠肝鉄作功
遠山高照影縣弓
広容(?)八萬官秋色
収在這翁一念中
維辰元和己未小春吉烏
前妙心雲臨夬雲老衲玄孚寛(?)書焉
右雲林寺と表具シテアリ
尚シキウツシハ別ニアリ
 
 
 明智略系
景廉公長子
二代目遠山判官大藏大輔景朝
三  明智三郎兵衛尉 景重
四  遠山左衛門尉  景長
 (朱書)孫太郎     廉(朱書末)
五  明智加藤次   朝景
六  遠山孫太郎   景忠
七  同 安芸守   景房
八  同 安芸守   頼景
九  同 大藏少輔  景基
十  同 大藏少輔  景次
十一 同 左京進   景勝
十二 同 明智左衛門尉景保
十三 同 遠山左衛門尉景成
十四 同 相模守   景行
 
10     画像(翻刻付)

 
 文化十一戌四月三日遠山左衛門尉景晋殿
 五百石ヤシキアタゴノ下用人安嶋鉄右衛門より
 河内左中正俸江知来之写
  大職冠鎌足十六代後胤加藤次景廉男
  明智三郎兵衛景重十二代孫遠山相模守
  景行長男遠山民部少輔利景三代孫
  遠山勘右衛門方景二男
[ (朱書)遠山織部殿方初代(朱書末)景重 寛永甲子年新規被 召出]   忠三郎 後十右衛門
(朱書)同二代目(朱書末)景恒    忠三郎    後十兵衛
[ (朱書)遠山左衛門尉方初代(朱書末)景好]  吉三郎    後権左衛門
    寛文八戊申年願の通二百石分知
    被 仰付其後二百石御加増五百石
    ニ相成申候
 右之通御座候前出遠山勘右衛門方景与有
 之ハ小日向遠山鉞之助后左京様御方
 四代目与奉存候
 
11     画像(翻刻付)

 
 但寛永系譜札之通有之候
    加藤景簾か後胤
 景成
   濃州明知を領す与有之候右景成
   与申御方より方景与申御方迄四代
   与奉存候事
  右書付之写也
 
  木下家系
 四代目
  利貞    [淡路守母者木下右衛門太夫延俊女]
 女子   遠山信濃守友貞妻
 
 公定(キンサダ)
     [肥後守母者金森出雲守重頼女]
 女子  浅野壱岐守長恒妻
     方へ遠山信濃守友貞女公定(キンサダ)長女
 
 
 女子
 女子
 
 右木下肥後守殿留守居冨田郡兵衛より
 文化四丁卯歳八月廿五日福田景氏
 江遣候書付也
 
 右今度被差上郡村之帳屋相改
 及 上聞候処被成下 御朱印也
 此儀両人奉行依被仰付執達
 如件
       永井伊賀守
           尚庸 花押
  寛文四年四月五日
        小笠原山城守
           長頼 花押
   遠山信濃守殿
 
12     画像(翻刻付)

 
◎天児屋命       天押雲命
 天種子命       宇佐津臣命
 御食津臣命      伊加津臣命
 梨迹臣命       神聞勝命
 久志宇賀主命     國摩大鹿嶋命
 臣狭山命   雷大臣命[仲哀天皇御達亀道之間如賜卜部性]
 大小橋命       阿麻毘舎命
 阿毘□大連      真人大連     □虫 不詳
 賀麻太夫       黒田大連
 常盤大連       加多能祐大連
 御食子大連
 
 
◎大織冠鎌足[内大臣正二位] 不比等
  天智八年己巳十月十三日賜藤原姓
 房前    長男魚名  二男鷲取
 二男藤嗣  二男高房  七男時長[鎮守府将軍常陸介]
 利仁[鎮守府将軍武蔵守]  叙用
 吉信    二男重光   貞正 加藤瀧口
 忠正 正暦  景通 長和  景清
 景員     景廉[治承建保承久]
◎景朝  遠山加藤太郎 大和守
     [建仁三癸亥年九月賜遠山庄仍為称号]
 三男景員 岩村  景資  景茂 岩村
 景明     景秀 岩村  景興 [以下代々岩村]
 景重  持景 寛正  頼景 永正
 
13     画像(翻刻付)

 
 景友(トモ) 文永永享  景廣(ヒロ)
 景前舎弟直廉 苗木元亀  友勝(ともかつ)[景義ハ景明ノ次男景秀弟]―苗木[養子飯間景義孫]
 友忠(タダ) 代々已下苗木 友政(マサ) 慶長元和
 秀友    友貞(サダ)  友春(ハル)
 友由(ヨシ) 初友章  友将(マサ)  友央(ナカ)
 友明(アキラ) 初友張  友清(キヨ)  友随(ヨリ) 初友傳
 友福(ヨシ)  友壽(ヒサ)  友詳
 
 
 寛延二己巳年正月
被仰渡
   覚
 御勝手御不如意ニ付向後御加増
 立身等之儀其身一代切ニ被 仰付之候
 併別而勤柄も宜并忰相応
 ニ茂被 思召候ハ格合御加増等相続
 家督茂被下置候儀茂可有之事
   巳正月
○宮地藤兵衛正足元禄十年九月
 四日隠居御礼申上脇指一腰献上
 嫡守右衛門同日家督之御禮以無銭
 申上候趣記候物御座候
  右之通ニ候得者九月朔日二日頃ニも
  隠居家督被仰付候やと相見候元禄
 
14     画像(翻刻付)

 
  九年ニ藤兵衛正足御家老相
  勤罷在候儀に存候
 
 三輪氏如何成人とも難相知候近キ頃
 之三輪市衛門父四郎右衛門是則
 涼月院様之親ニ而御座候お秀被召
 抱候ハ正徳年中之儀御座候之旨元禄
 之頃此家筋可有之理無御座候
 右ハ是ハ秘書之内ニ巻物可有之
 其奥書ニ正足三輪氏之事有
 之ゆへ鈴木重副へ相伺候節之
 答書之様也
 
 
 寛延三庚午年
 小川平左衛門隠居忰政右衛門
 江家督被下置候得共暫徒士頭
 也今迄之通御頼同年十一月八日
 徒士頭役御免
 
 宝暦元辛未年四月十二日
 曽我主礼徒士頭二而供頭御頼
 候之間致出府候様被仰付
 同十一月廿八日万右衛門ト改名
  寛延元辰八月七日目付役へ申付
  同三午十一月八日徒士頭兼役
  申付候
 
15     画像(翻刻付)

 
寛文十二壬子年駿河御加番
信濃守友貞公御勤之節御供之
面々名前
 家老        纐纈市兵衛
 用人        幸纈定之丞
 旌奉行       田辺傳五郎
 弓         幸纈勘右衛門
 鉄砲        長沼弥右衛門
 長柄        田辺紋右衛門
 平給人       鈴木弥兵衛
           加藤三郎左衛門
           深尾清右衛門
           陶山六太夫
           神山利兵衛
           吉田市兵衛
 
16     画像(翻刻付)

 
 中小姓通
 中小姓頭      長沼源六
 徒頭        田辺儀右衛門
 同         宮地弟右衛門
 納戸        市川源内
 同         宮内源五右衛門
 近習        長沼万右衛門
 同         伊東政右衛門
 同         幸纈儀左衛門
 同         宮地弥三郎
 平中小姓      神山定右衛門
           小池七郎右衛門
           吉田重太夫
           曽我弟六
           塩冶三太夫
           長沼源太左衛門
           奥田源右衛門
           東源兵衛
 
 
           塩冶文藏
           曽我新六
  徒        桃井甚五左衛門
           井林弥五左衛門
           佐藤五六右衛門
           松原弥次右衛門
           岸九郎右衛門
           曽我九兵衛
           丸山六郎兵衛
           桃井八郎右衛門
           佐藤市郎右衛門
           安田太郎左衛門
           高柴権左衛門
           尾関多兵衛
           小栗甚右衛門
           永田文左衛門
           山中沢右衛門
           川上弥一右衛門
 
17     画像(翻刻付)

 
           宮地奥右衛門
           鮎沢与兵衛
           山内藤兵衛
 [此名前不審可考事] 山中沢右衛門
           佐藤仙齋
 茶次        滝沢与齋
 
 
今度打毬馬之儀ニ付他行之始末御呵
等之人茂有之候得共一躰打毬之事ハ馬
術練磨之益ニも有之儀且段々用意も
被致候事折角存有之候気先を挫候而者
惣躰之馬術稽古へも相響易ク
旁以一旦御咎相済候得者稽古有之候
様致度則其段申上候処此儀ニ者
御趣意有之儀ニ而面々共愚案と者
甚相違成事ニ候ケ様ニ各へも申達候様
ニと之御沙汰等ハ無之候得共上御真実之
思召を一統篤与相心得不被申候而者御
為ニも不相成且各為ニも不相成候間委敷
令演説候先達而於江戸表打毬
稽古被遊 御透見候之由既ニ
御自身様モ被遊度内々正左衛門迄御
沙汰有之候処御指留申候其主意
尤之儀御 思召被成御止候事の由
 
18     画像(翻刻付)

 
其後何レも相催候を被成御覧候処
中ニハ無益之花美成出立も有之躰
被遊御見受候由然処今度何レも
稽古相催候段最初被及御聞候節
又々右江戸表之躰ニも可有之哉与
御心掛りニ被成御座候処近々取沙汰入
御耳益花美のミを相好候様子ニ
相聞惣而事大造ニ致風説此度
之儀者上より内々御手伝も有之相催候
事与専致取沙汰候趣ニ被及御聞候
就而者近在并他所迄も相聞可申扨
又右相用候借馬之儀者尾州ニ而
不御用立民家へ被下候老馬様丈
夫之駈走可相成躰無之抔与致取
沙汰候趣是等之儀ハ全く申触候程
之労馬ニ者有之間敷誠悪(ワル)口半分
 
 
之儀ニ而も可有之事と思召候得共右之
趣ニ而者弥人見セ而巳(のみ)之主意ニ落入
殊更 上より御手伝被成候様評節
有之候而者人口難鎖右躰之事ニより
是迄各実学之芸術迄も虚
名ニ相成他邦之評議ニ相掛り候
而者 御心外之儀ニ思召候万端
実躰を本と可致儀者不及申事
候得共別而武芸之本意相違之
儀思召候然処御馬等も被成御
貸 上ニも被遊御覧面々共迄も致
一覧候て者御年若之儀旁右躰浮
花成事被遊御好候様ニも御外聞不宜
是又近来何茂武芸致精学御
高ニ而者他家ニも不恥義与御自讃
ニも被思召如何計御楽被為在候処
 
19     画像(翻刻付)

 
外諸芸之事迄実学ニ無之様
外より下墨(さげすみ)可申や与 御心遣被思
召且ハ御心外ニ思召候と之御沙汰
ニ有之候右之様奉承知候ても誠以
難有次第一言可申上儀も無之
候右思召之処各篤与相心得被
申候者以後万端之心得ニも可相成
御奉公筋勤方或ハ諸芸修行之
励ニも相成且ハ平常一身之上ニおゐて
肝要之心得ニも可相成候間粗増書付
申達候勿論右之御主意ニ候間打
毬稽古思召ニ不相叶筋ニ者無
之候間此段可被致翫味候猶口達
ニ委細申述候以上
  寛政十二庚申
    十一月四日達之写
 
 
塩見被官へ申達写
  覚
一御軍役人数   五十人
  内
  一番組    廿五人
  二番組    廿五人
  扣 組    何人
一年二十才より五十才迄
  但二十才以下五十才以上ニ而も其
  身之丈夫器量有之候者ハ
  覚悟次第相用候事ハ別
  段之事
  附壮年之者ニ而も病身虚弱
  之者ハ御用不相立候事
一惣右衛門父子之者ハ右人数之外
 
20     画像(翻刻付)

 
ニ候之事
一五十人之分者何時ニ而も御用之
 節者申遣次第罷出可申事
  附其節之装束之儀者兼而渡
  置候御紋印張笠ヲ用大小股
  引胸当草鞋ニ而罷出可申
  候事羽織之義者心次第相用
  可申事勿論致着服候共
  不相用共可為一用事
 一所持之鉄砲玉薬小道具等持参
  可申事尤罷出候後者玉薬
  火縄等可相渡候間十放宛持参
  可申事
 一惣右衛門父子之儀者立附(たっつけ)可相用事
 一雨具之儀ハ蓑を相用可申事
  笠ハ渡置候張笠晴雨共ニ用可
  申事
 一夜燈之義者松明相用之事
 
 
一荷物之義ハ琉球包ニても渋紙
 包ニ而も心掛次第馬荷物ニて村次
 相送可申候事勿論先触差出
 可申事
一五十人名前之儀者正月的之節
 中附帳面相記候通り罷出可申事
 病気或ハ外差支丈ニ而難罷出者ハ
 扣組之内より差加へ罷出可申事
一鉄炮的呼出シ見分之儀隔年ニて
 被 仰付候間一度廿五人ツゝ罷出可申事
  但五十人一所ニ見分有之義も不時ニ
  者差支候間兼而左様心得可
申事
一右的之義子寅辰午申酉戌
 左之春中被 仰付候間正月
 年頭御祝儀罷出候節惣左衛門より
 日限相伺可申事其上指図可
 
21     画像(翻刻付)

 
申渡之事
一村方ニおゐて毎年正月上旬之内
 鉄砲的可仕事其節中附帳
 面仕立村鉄砲改方へ差出可申事
   認方
    鉄砲中記
     一番組
        名
 
     二番組
 
     扣 組
 
       惣右衛門
         父子
   合人数何人
 右之通帳面ニ仕立番目印形を
 
 
 仕差出可申事
一見分的之節弐人扶持ツゝ被下候事
一村方ニ而稽古的之節之扶持
 米六合ツゝ諸事入用米壱升
 ツゝ
 右之通人別ニ被下置候事
  以上
  寅正月
 右文化三丙寅年申渡候
 写なり
寛保三亥年十二月
一隣家小出限次郎上り屋敷千四百
 七十坪御預り
同四年二月晦日
一右屋敷松平因幡守[當時松平中務少輔五千石]
 
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 江被下引渡候
同三年正月
一飯地村砥石躰之石有之御届之事
 
寛延四年十一月
一松平因幡守上り屋敷御預十一月丹羽
 和泉守へ引渡
宝暦十一年
一福岡村ニて浪人口論一件有之
同十二年二月十六日
一芝馬町より出火上屋敷類焼
安永二年
一飛州騒動
同四年
一切通鐘 堂寄附已来差出
 
 
 金二百疋と申候事
一領分伝馬公事
天明二丑年
一日光山へ名代 福田次郎右衛門景當勤之
同四より五秋迄
一友随公大坂御加番
同四九月
一上屋敷裏長屋より出火
寛政十一年
一福岡村山論
同十二年
一日光山へ名代 福田忠左衛門景氏勤之
享和二年
一瀧坂舟次御呼出
 
23     画像(翻刻付)

 
文化三丙寅三月四日
一高輪車町より出火上屋敷類焼江戸大
 火ニ及び翌五日慎(鎮)火類焼之面々御暇
 早クとも勝手次第被仰出候三月十五日
 御暇也
 
延享二年二月十二日
一青山辺出火麻布別舘類焼
寛政九年十二月
一北条殿前町屋より出火麻布下屋敷類
 焼也
 
 
  覚
一御具足之御祝ニ者登城仕候
一御嘉祥御祝ニ者登 城仕候
一玄猪御祝ニ者登 城仕候
一公卿衆御能之節始而御奉書頂戴
 小笠原山城守ト同道登 城仕候其後ハ
 御触無之節茂登城仕候或時分差
 合ニ而罷在候ニ付御断申上登城不仕候其
 已来中絶仕不罷出候
一蹴鞠上覧之節も御奉書頂戴登
 城仕候
一紅葉山上野 御参詣之節者装束
 ニ而供奉仕候
 右之通父信濃守相務申候
一御具足御嘉並玄猪御祝之節者
 拙者義も登 城仕候以上
   四月十八日 遠山和泉守
 
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享保七壬寅年六月廿一日水野和泉守殿
へ伺献上物之事
参勤之節
 御時服 [内御熨斗目黒紗綾羽二重江御白無垢]
 御太刀馬代

已来 御太刀馬代銀一枚
 [白綾柄白紗綾]之内二巻
御付札如此十九日差出同廿二日

     遠山伊与守
 
 
御能拝見之節
 御料理頂戴江元柳之間之衆ハ紅葉
 之間ニ而被下候事之由
 先年御混雑多く柳之間ニ天無
 拠頂戴之事有之其後風与(ふと)柳之
 間江御書出有之候方ハ柳之間ニて頂戴
 之由
  紅葉之間ハ金銀之御料理之由
 
一享和元酉年六月廿三日御城内供
 方召連候書付御目付松平田宮殿へ差
 出同三亥年十一月八日御付札ニ天
 相済候写尤要用之処計写ス
  下馬より下乗迄召連候人数五人
一駕籠脇
  内二人刀番
付札
 此侍分之内一人相減已来四人召連ニ而
 可然候
 
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一柴上屋布 二千九十九坪
 [間口三十六間奥行六十間] 表道幅四間
一麻布下屋布  五千五百五十三坪
  表通り百四間   奥行百間
  表通り六十四間
 北条家堺百間 木下家堺五十四間也
 
一道中休泊札従先年紙札
 之処祐筆共より依願文政壬午年
 四月御暇之砌登り道中より木札
 ニ相成申候日付只今有之処
 已来名計ニナル
 
 
  留守居勤役之覚
元禄年中               神田宅左衛門
大安寺殿御代 助役          河内権右衛門
正徳年中               嶋崎三五左衛門
大林寺殿御代 助役          小池定左衛門
享保年中               神山新左衛門
白岸寺殿   助役          神田仙右衛門
締心寺殿御代 同           神山次郎左衛門
[寛延元辰八月十五日より安永三午隠居]       中原丈助
[安永元辰十二月廿二日より天明二寅十二月廿五日死] 福田次郎右衛門
[天明三卯正月立身寛政十二申年迄]         河内左中
[寛政七卯九月四日より轉役]            福田次郎右衛門
 
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文化五辰十一月十九日役儀
文政       側用人 河内左中
兼役同五壬午正月十一日
用人へ申付前同様也留守居兼役之以旨同
用人一役ニナル
文政五壬午正月十一日役儀 福田十郎太夫
天保五午十二月三日元方より
立身           石原和平
 
 
両山献備御石燈籠
上野
 御宮ニハ献備無之
 
    奉拝進
台徳院殿           尊前
 寛永九壬申暦七月廿四日
       遠山刑部少輔藤原秀友

大猷院殿

   延宝九辛酉年五月八日
        美濃国苗木城主
  武州東叡山 従五位下和泉守藤原姓遠山友春
巌有院殿            尊前
  奉献  石燈籠       一基


 
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      宝永六己巳年正月十日
常憲院殿       一基
  東叡山      友春公献備
 認方前ニ同し文(?)略
      正徳二壬辰十月十四日
文昭院殿       一基
  武州増上寺    友章公献備
有章院殿
      寛延四癸(辛)未六月廿日
有徳院殿       一基
  東叡山      友明公献備
惇信院殿
      天明七丁未九月八日
浚明員殿       一基
  東叡山      友随公御代
 
28     画像(翻刻付)

 
 駿州府中浅間社御加番の節献納
 奉献   石燈籠    一基
   駿州
 浅間大神       廣前
  元禄八乙亥年三月廿九日
     濃州苗木城主
      従四位下和泉守遠山氏友春
 
 
 


 
文化八辛未年三月廿九日参勤
道中福島御関所立寄之一件
 去年登り之節も使者口上ニ懸合有之
 尚又用人共不通苗木へも有之
三月廿八日苗木出立其夜泊り使者向井五左衛門
を以て如例口上有之氷餅一箱到来及直答其節
懸合も有之
廿九日福島通行宿入口へ使来ル一
通り之口上及相答磯野十左衛門御関所迄
案内且供下乗等聞合申来供頭加藤益次郎
及答候事
御関所へ如例徒士使且無程罷越候段も申遣候
西尾三郎右衛門
御関所へ相越候節申供立之事
先供有合次第
 供目付一人平七人合八人也
  当日宿割一人見習一人供目付一人不出
駕篭脇八人
 供頭益次郎 中小姓 [安江宅左衛門棚橋庄ヘ山田雄三郎]
 
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  納戸河本与平  [神山馬之進 山中将多 近習助田辺勘兵衛]
    先手納戸一人近習一人不出候
      熊沢純藏 宮地鍋吉
大番所様
追甚兵衛殿
出迎提刀ニ
テ勝手へ通り       (図)
及愛拶茶
タハコ菓子
出ル暫對話
直ニ帰ル送り
候様也
甚兵衛殿着
座自分ハ旅
装束之侭也
 
挨拶駕篭脇より使山田雄三郎を以口上申
入候事
 供用人 小池房質也
 
 
一世
 雲林創建夬雲大和尚 法系
  當国武儀郡上有知人猿渡氏
  加治田龍福寺関梅龍寺当寺三ヶ寺
  住職 元和壬戌八年三月廿五日於龍福
  寺遷化 寿七十六
 龍福陽南大和尚
  寛永十六年己卯九月十六日於龍福
  遷化
 雲林二世中華大和尚 [遷化ノ地不詳当寺ニアル塔ハ石牌ノミト申伝フ]
  筑紫人姓氏不詳
  元和五己未八月十八日遷化寿五十三
  按ニ当寺建立之節夬雲和尚ノ
  命ニテ當寺へ来り世話致サレシコトト
  見ユ則方丈棟札ハ中華和尚ノ
  記ナリ石牌ニモ創建ト記セリ然
  レトモ創建ハ実ニ夬雲ナリ今ニ到テ
  ハ創建ト称ルハ夬雲和尚ナリ
 
30     画像(翻刻付)

 
三世
 雲林開山一秀大和尚
  當国山縣郡人深尾氏十二歳龍福
  夬雲和尚ニ投シテ剃髪後ニ法ヲ陽南
  和尚ニ嗣ク元和六庚申首座職ニ転ス
  同八年転任寛永二年乙丑改衣
  同二十年癸未妙心寺住番明年春
  妙心住持ニテ江府へ赴キ 家光公ニ謁ス
  明暦元年乙未壽昌院ニ隠居ス
  寛文四年甲辰三月十六日遷化
  按壽七十九歟
     (以下の行より朱筆)
  下ケ札夬雲和尚ハ雲林寺殿御帰依アツテ
  諸待當寺建立ナレトモ一秀和尚実ニ當寺ノ
  一世開山ナリ故ニ夬雲和尚ヲ建創ト称シ一秀
  和尚ヲ開山ト称スル者ナリ然レトモ夬雲中
  華ト先キニ住職アルニ依テ三世ノ次第トナル又
  夬雲和尚ノ一秀和尚へ被遣候書付等ヲ見
  レハ兼々一秀和尚ヲ當寺ノ開山トナサレ度
  所存ト見へ申候云々
     (朱書末)
 
四世
 ―雲林中興玄外大和尚
  丹州ノ人村尾氏中華和尚ニ投シテ
 
 
  剃髪中華和尚遷化後開山ニ
  随侍メ法ヲ嗣ク転任年不詳
  万治元年戊戌改衣
  開山遷化ノ後三年ニシテ寿昌院へ隠居
  寛文九年己酉九月廿五日遷化寿七十六
 右宗敦寺ノ記録或ハ綸状職状
 等ニテ近頃考合セ置候右故委キ
 コト不相分間違モ可有之候
棟札写
 薩訶世界南膽部(マカセカイナンセンブ)
 州扶桑国東山道(シウフソウコクトウサン々ウ)
 美濃州慧那郡苗(ミノゝクニエナコオリナエ)
 木城阜天龍山雲(キシャウフテンリウサンウン)
 臨精舎新方丈造(リンシャウシヤシンホウジャウザウ)
 
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 立大檀那源朝臣(リウダイダンナゲンアソン)
 遠山嫡家友政公(トウヤマチャクカトモマサコウ)
 矣花園派下住持(クワエンノハカジュウジ)
 比丘中華玄太誌(ヒクチウクワゲンタイシルス)
 焉(コレヲ)
大工藤原朝臣洞地宗太郎正次
于時慶長十九年甲寅菊月吉日
 
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 文政二己卯年十一月朔日より於由賀江
 両親為養育男扶持二人分遣候事
 同六癸未年三月十日同断増扶持壱
 人分合而男三人扶持也
 
元禄七戌三月十三日
一新町ニ成候田畑之代地小頭兵左衛門分田
 畑所々江渡し候地年貢納来り被下候
 兵左衛門田地の年貢ヲ引免申付候
 前々より年貢納不申候分兵左衛門納来り
 候年貢積りニ当戌之暮より納可申候
 
 
 文化四丁卯年小笠原常方平兵衛
 先生騎射門入之後苗木役人共より
 江戸詰合役人共へ別紙之写尤要
 用之丈計抜書 江戸詰陶山登兵衛也
  苗木より之筆書鈴木金蔵重副也
 上畧上之御稽古向之処迄差支候様相
 成候而ハ甚御恐怖被成候由御相手何人ト
 入門被 仰付候訳者平兵衛様仰ニ色々
 之人有之候今夫を御覧被遊候処則御修
 行之介ニ相成候外の者ハ他へ出候而人の
 形も見候得共 上ニハ他を御覧の御事
 無之御不都合ニ御座候見望之者可被
 仰付候方御稽古之励と有候而被仰付候
 処も一段御座候間諸人一己之執心計
 之事ニ而無之左候得者則
 上之御稽古之儀ニ相当り候間□(弥)以     (虫食い不詳)
 萬此処迄も相考合候様被成度旨委
 
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 細致承知候御尤之御思惟と存候
一前条之程之御勘考とくと拝補(?)
 孰考之処御内役紀平治[石原氏目付役也]
 抔ハ申聞候主意神妙尤之慮ニ相聞
 又登様ニハいたしかゆし之御心持是又
 御尤之御事存候然処拙者共右意
 ハ別紙ニ得御意候趣故拝借金等
 之儀者水底と存候 (中畧) 全
 稽古金無之而者万石之御身証物
 之為ニ無之候間御金等差支なとゝ
 申様之寒キ料管ニ而者無之
 武辺武術之仕成し勇士之魂
 已ニ成り形チハおんぼろしやくぜう
 申ストモ頓着無之遠山家之士
 風当時江戸之當世ものなとはアキレ
 て腹をかゝえさせ武ニ目たり
 
 
 石田もしり抔を突平兵衛様
 御賞美なから気之毒ニ思召候位
 天強々を若キ人々ニのミこませ夫を
 上之御楽ニ被遊候様仕度奉存候御年
 之若キニ又之御相手之者も何レもくきやう
 成若もの揃ひちとりつはも致度
 筈夫を重々拙者共察居候上之
 勘弁願望御座候四十以上六十ニ及之
 □(胸)を若輩之上へ推あて給いし事近頃
 無理成事ニ候一々爰者第一御為并
 御家風士風相掛誠ニ不一方大事
 之術各様ニも尚又御考右申遂候次第
 御心得ニ違候儀ニ御聞候ハゝ何ヶ度も無
 御伏蔵可仰進先此表内談之一右
 押へ懸りもなキ趣を申進候以上
  十二月十五日      四人
  御三人様 [加藤孝衛門中原平助陶山登兵衛也] [吉田太郎市鈴木金蔵東権右衛門大濱兎毛也]
 
34     画像(翻刻付)

 
文化十一二ノ頃伝奏御勤之衆
中人数問合之覚  三内存之
家老一人  用人 三人
       但一人留守居兼
御用聞諸御官兼  三人
  物頭位之仁也
御自身
元〆  二人 御取次五六人
火ノ廻り一人 大番所番頭壱人
  右是迄物頭格
御手長 三人 大番所番士二人
御小屋許六人御近習御納戸之類
但し是より御供も兼
御医師両人  御右筆二三人
居小屋取次五人 [甚タいそ可しき役之由何人有りて不足といふコト]
 
 
勘定方 二人 納戸下役壱人
徒士目付一人 下用聞二三人
 火之廻り   筆事達者
茶次二三人
広間帳付  進物番兼三四人
東引戸口上番  一人
料理人二人  下勘定一人
表徒士九人  食座方四人
  但走使兼
坊主二人  伝奏御先供 三人
      ヤトイ
足軽小頭五六人
  但大番所ニ両人残り自分用
  御留守居書役壱弐人
足軽宿所三ヶ所
立番足軽
 
35     画像(翻刻付)

 
 鳥辺野(鳥部野)之むなしき炳ニはとりすめぬ
 風尓なひきあたし野の浅茅之露□□(ハ玉)     (虫食い不詳)
 ゆらの光りに消かへるも常なき世のためし
 をそふ芳光院殿四とせ先の冬嫁
 娶の儀式つきくく前裁に枝をつら
 ぬる松竹も契りの色を霜後にあらハし
 調度のかたに書し鶴亀は千代万
 代の媒をなすかとおほえし吾済も
 御見福とり納而俣に仰蒙り天しか
 まにあらねとかちんの袖をひるかへし
 て賀し奉りぬるもいつの御簡(間)そやことし
 世はなへて立かへる衣手かろき頃尓空(うつ)
 蝉(せみ)の木かくれニしのびくに御心地あしく
 おハしますといひあへれとおとろくしうも
 聞元年は常になやミ物し玉ふ心
 ならひになにくれとして過行五月
 空の晴間なき御心きのふけふ猶更
 あえかになりまさり玉ふと人く
 はしりまとひ世に名有良医召て
 
 
 御薬をすゝめ神にも誓ひ佛に
 まふて御祈の御修法あらむ限
 つくし玉へと此世にはしるし(虫)十日     (虫)とあり友寿公時代既に紙損のよう
 余二日の空の月も西の山の端に
 影隠るゝ頃佛(虫)の御手の糸のみたれ
 心もなく唱名さたかに絡をとり玉ふ
 御名残いはんかたなし
かきりある玉緒なから今しはし
 むすひもとめよ来夏の露
 今そかりし世のあらましおもひ出れ
 ハなミたとゝめかたくて
短夜の夢の浮橋者つくとも
 かけてはかなき人の世の中
 後のさわさとり行く初(虫)の日     ( )虫食い部分
 御墓にまいり天
苦ハまたのほらぬ程の日数にも
 残るしるしの草に露きき
新庄駿河守殿用人
  畑 貞右衛門    □作
 
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  江戸詰
    陶山登へ鈴木氏書状之写
 當時東美濃辺散在之遠山庶
 流民間或寺社等ニ遠山世系遠
 山世譜遠山家譜なと表題セル野史
 俗書数々及見候内誤不少候遠山来
 由記殊推議之説多く何レも遠山
 御正景ヲ一圓不存ものゝ編輯ニ而
 察を以明とし年数世代之序次
 理を以推極或金山記苗木記三河
 後風土記之如キ一向之偽伝忘譚
 を取用正記ニ便ル処も織田軍記
 信長記位之義古書にてハ東鑑
 甲陽軍鑑等ニ拠候得共是以東
 鑑ハ印本誤字多其正本を不得儀
 軍鑑者万治板を信し何レも僻
 
 
 事多御案内の通軍鑑古傳の
 真面目見不申候而者万治板元禄
 板共○鑑并後人之作意多し近世
 編年集成に正敷事の様ニ見候得共
 編たる人之気象ニ依僻説不少
 乍恐  神君の御尊慮ニハ反可
 申哉と被存候所も相見候右躰の事ニ
 拠テ一概ニ聞し道理尽クし推量ハ
 多分不相見候様相見候依而為見候
 差謬之大図左ニ認進之候
一加藤太光員之子ニ六郎景長ト
 記候ハ非也
   景長ハ景簾之男ニシテ景朝の
   弟也兵衛尉左衛門尉
 伊勢加藤左衛門尉ト云亦非也加藤次
 景簾之孫加藤六郎兵衛左衛門尉
 景長ニ而候甲斐国ニ住ト正記ニ相見候
 
37     画像(翻刻付)

 
  按ルニ■■■■■■■
  景簾(景廉)所領を世人美濃国遠山庄
  のミの様に心得候得共甲斐伊豆遠
  江備前上総美濃等数箇之庄園
  有之美濃ニも遠山庄小木曽ト記有之
  オギソハ今ノ信州のヲ木曽ニ候也
  又者付知かしも川上の辺の事候や
  近代迄右三ヶ村ヲうら木曽ト唱し
  趣古事相見候
一光員の男ニ景の字を祢ルの人私
 見及ひ不申候
 案ルニ
  加藤弥太郎光政 同弥二郎光時
  同新左衛門尉光資 能登房行金或ハ作行全
 右の趣ハ及見候承久乱被梟首候人も
 有之様覚候尤京方へ参り関東
 より成敗被成候事御方候
一景簾の男遠山加藤太郎景朝
 
 
 同七郎左衛門尉景義ト両名而巳(のみ)記候も
 多相見候右の外両男八女有之候
 七郎左衛門景義遠山ト称候義正記中ニ
 及見不申候遠山御称号ハ景朝公ニ
 始り其御子孫遠山ヲ御称外御兄
 弟或ハ加藤河津等古記相見候
  按ルニ景簾君の御子嫡遠山加藤太郎
  景朝左衛門尉大和守大蔵少輔ト御官
  名相見候
  加藤六郎左衛門尉景長
  加藤七郎左衛門尉景義
  河津八郎左衛門尉尚景
   左衛門尉太夫判官伊豆守トモ記
   有之
  宝治元年丁未冬卒去廿五歳印本
  ノ東鑑ニ記候得共是ハ伝写の誤ト
  相見候父景簾君承久三年辛巳の秋
  ニ而廿七歳ニ相当申候或人三十六歳の
 
38     画像(翻刻付)

 
  誤かト申候得共是も推量之説
  難取用候
  女子八人御聟の性名多縁ゆへ
  略之内一人ハ尼遠郷の尼ト
  称候趣樫原家の系図ニ景簾
  の女景勝尼ト申事有之闇ニ
  符合仕ル様相見候
一遠山来由記ニ尚景ヲ以景朝の儀
 ト推極記有之候或ハ景長ヲ景簾
 の甥ト心得誤ニも有之候
一遠山世譜ト表題シタル書加藤二郎
 左衛門尉行景ヲ以景朝の男ト記候者
 非也行景ト景長の男ニ而即景
 簾君の御孫ニ而候依而加藤ト可称
 遠山ト不可称儀被存候同書の内
 加藤六郎兵衛尉景経ヲ行景
 の子ト記候のミ正史ニ相見候然共遠
 
 
山氏ト心得記候処の相違ニ而候
一景経ト申ハ力量弓馬の達者ト相
 見候訳ハ東鑑ニて相知り此子孫アツタの
 加藤図書殿ニ而彼家ニ系譜詳記有之候
 但 御家系ト少し違候処相見候是ハ甚
 古代の事故写し誤等の儀かと被存候
一右世譜と申書ニ景経より系ヲ傳遠
 山頼景ト記其間代数不知与認有之是ハ
 一向 御正系ヲ不存人岩村遠山来
 由記ニ拠候而記候や相見候
一景簾君御寿数を記候類の義後人の
 作意か何ぞの誤より一盲衆盲をひきし候
 儀かと被存候 景朝公御寿数右同断
一武家大系図并尊卑分脈[世ニ十四巻系図ト唱]
 是等の書加藤ノ系を記候得共遠山の称
 不相見殊ニ父子を兄弟ト誤叔姪を父子ト
 記候類不少候
一大凡諸家共ニ系の実者甚難得儀
 かなと相察武田小笠原の御家系た(だ)に
 
39     画像(翻刻付)

 
 両家両様相成或ハ寿数を以推し候
 得者世代難連類相見候就中
 水野家源性平性両説等ハ誤ルものゝ
 大成事かと存候是等之儀別ニ御
 内々申進候外ヘハ御沙汰御断申候
一遠山ヲ以称号トスル家々数流
 一ニハ美濃国遠山庄以来遠山ト
   被称候即 御家并明智の遠山
   様其外も多御小家可有之候
 二ニ土岐家庶流の内遠山何某ト申
   儀相見候是ハ続太平記其外
   相記録高野過去帳有之様相
   聞候此元来者外山を遠山トアヤマリ
   記候やと存候土岐家略系ニハ遠山の
   称不相見候
 三 鎌倉権五郎景政の裔ト称平性
   ニ而景ヲ通り字ニ用今信州伊
   奈郡和曽大河原辺の民間ニ
 
 
   右子孫有之
 四 前太平記遠山左衛門太郎候[此名間違哉不慥]
   同左衛門三郎宗モチ[此モチノ字忘却]兄
   弟相見候出所何レの古記ニ據候や
   不存候
 右者私及見候処ヲ認進候外ニも可有候や
 存候御考合可被成候
一明智軍記トか明智実記トか申板本
 十巻計有之一向取所も無之儀多々
 光秀を遠山民部入道宗宿の甥ニ
 而宗宿西美濃土岐家滅亡の節籠
 城討死光秀へ遺言の儀等跡方も無
 之儀記有之候光秀者土岐の庶流より
 出候明智の称号ハ西美濃可児郡の内
 明智十二ヶ村可七ヶ村可有之様覚申候出
 所ハ此所かと存候
一小日向遠山様御先祖宗寂公以前の
 儀も少々相分候儀有之や存候得共御
 
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 咄合の妨かと存候間不被進候以上
   七月廿四日    金蔵
 
 
 領分中惣人数覚
 元禄三午年
一壱万五千二百九十人
  内 [七千七百七十六人男七千五百十四人女]
 同十五年午年
一壱万七千三百二十八人
  内 [八千八百四十六人男八千四百八十二人女]
 宝永五子年
一壱万八千一人
 正徳四午年
一壱万八千五十四人
  内 [九千三百七人男八千七百四十七人女]
 
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 享保十一丙午年
一壱万九千三百八十三人
  内 [壱万十七人男九千三百二人女]
 同十七壬子年
一壱万五千人
  内 [壱万百十五人男九千百三十五人女]
 元文三午年
一壱万九千二百六十七人
  内 [九千九百五十一人男九千三百九人女]
 寛保四甲子年
一壱万九千百三十四人
  内 [九千八百九十七人男九千二百三十七人女]
 
 
 寛延三庚午年
一壱万九千百七人
  内 [九千八百六十三人男九千二百四十三人女]
 宝暦六丙子年
一壱万九千四百三十六人
  内 [壱万七十九人男九千三百五十七人女]
 同十二壬午年
一壱万九千八百二十七人
  内 [壱万三百六十六人男九千四百六十一人女]
 明和五戊子年
一弐万十四人
  内 [一万三百六十七人男九千六百四十七人女]
 安永三甲午年
一弐万二百二十八人
 
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   内 [一万四百六十七人男九千七百六十一人女]
 安永九庚子年
一弐万三百十一人
   内 [一万五百十九人男九千七百九十二人女]
 天明六丙午年
一弐万弐百六十六人
   内 [壱万五百三十四人男九千七百三十二人女]
 寛政四壬子年
一弐万九拾人
   内 [一万三百八十二人男九千七百八人女]
 同十戊午年
一弐万七百三十三人
   内 [一万六百八十六人男一万四十七人女]
 
 
 文化元甲子年
一弐万千四十七人
   内 [一万八百四十九人男一万百九十八人女]
 同七庚午年
一弐万千六百二十三人
   内 [一万九百一人男一万二百三十九人女]
 同十三年丙子年
一弐万二千二百廿二人
   内 [一万千九百十六人男一万三百六人女]
 文政五壬午年
一弐万二千二百四十四人
   内 [一万千五百七十三人男一万六百七十一人女]
 同 十一戊子年
一弐万二千七人
   内 [一万千四百九十九人男一万五百八人女]
 
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 天保五甲午年
一弐万千八百五十人
   内 [一万千四百五十七人男一万三百九十三人女]
 
 
宝永二乙丑年六月廿二日
桂昌院様薨去[家光公御妾本庄宮内大輔宗利女]
ニ付増上寺表御門番蒙仰之
  御位事の次第
 初七日 六月廿七日[辰中刻千部申上刻初夜]
      同廿八日[寅上刻晨朝辰中刻千部]      晨朝(じんじょう)=卯の刻 六時
 二七日 七月 五日[辰中刻千部申上刻初夜]
      同 六日[寅上刻晨朝辰中刻千部]
 三七日 七月十二日[巳上刻施餓鬼申上刻初夜]     施餓鬼=盂蘭盆
      同十三日[寅上刻晨朝巳上刻頓写]      頓写=急いで書写する事
 四七日 七月十九日[日中申上刻初夜]
      同 廿日[寅上刻晨朝辰中刻千部]
 御忌日 七月廿一日[散花法事申上刻初夜]       散花=散華
      同廿二日[寅上刻晨朝辰中刻千部]
 五七日  同廿六日未上刻法向
      同廿七日[寅上刻晨朝辰中刻千部]
 
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 六七日 八月 三日[辰中刻四箇法要申上刻初夜]
      同 四日[寅上刻晨朝辰中刻千部]
 七二日  同 十日[辰中刻千部申上刻初夜]
      同十一日[寅上刻晨朝辰中刻千部]
 百ヶ日 十月 三日
 御宿坊の覚
 秋元但馬守癸     源流院
 井上大和守癸     随喜院
 久世讃岐守癸     廣慶院
 黒田甲斐守癸     常行院
 戸田淡路守癸     威徳院
 松平縫殿助癸     月光院
 遠山和泉守      花岳院
大目付
 松平伊豆守癸     昌泉院
御勘定
 戸川日向守癸     安養院
 
 
 御目付衆       隆崇院
 野田三郎左衛門癸   天陽院
            普光院
            常照院
 七月廿三日
 御香奠  四品拾万石以上ヨリ上ル
 同 廿五日
 同断   万石以上ヨリ上ル
 右
天明四甲辰壬正月廿六日
一殿様友随公御直ニ御沙汰御座候者自分
 友福公永々引籠有之ニ付去冬諸向叙
 爵の時分河野仙寿院殿へ自分病気ニ付
 上意家治公有之候由ニ御座候直ニ御決之
 申上ル
 右友福公御日記ニ有之故爰ニ記ス
 
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○安永八己亥年四月    苗木
 御発駕
 虎五郎友福公十一月四日江戸御着
 用人
  神田鎌   菅川七右衛門 渡辺玄豊
  棚橋弥市  宮地金平   石原鍋三郎
  宮地鎌次郎 岩井杢右衛門 加藤求馬
  伊藤紋次郎 吉村只右衛門 陶山作左衛門
  山内助太郎 曽我喜文   市岡菅吉
 
○寛延二己巳年
   覚
 御勝手向不如意ニ付向後新知
 御加増立身等之儀其身一代切ニ被
 仰付之候併別而勤柄茂宜并忰
 相應ニも思召候者格合御加増等相
 続家督茂被下置候義も可有候
 之事
 
 
   巳正月
        足軽佐々木儀助へ
 其方儀岩井兵八相番ニ而御ほう物相守被
 仰付候処兵八御用之品を掠取申候を不存付
 漸至末宮原忠太を頼火事羽織ニ添置
 候そんし尋候付何やらん有之与申間心付尋
 出し由夫迄兵八掠取候品を不存義不届
 候急度可被仰付候得共見付候哉右申上候段
 御僉議も早速相済都合宜候付不及御沙
 汰候依之罷出可相勤候以上
   巳七月四日
        足軽岩井兵八渡
 今般御ほう物番被仰付置候処御用之品
 を数々掠取不届ニ候且御僉儀之節有
 躰ニ不申上事顕れ候迄せんし不届候
 依之死罪申付者也
   巳七月四日
 
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○宝暦二壬申年八月廿三日より
          伊勢屋
 扶持方五人      伊兵衛
 右渡方在所藏米直(ね)段を以七月十二月
 両度ニ可相渡之畢
   口上覚
 兼而存之通 御子様御出生被成候得者
 迅ニ扶持方可被下候処彼是与被及延引候
 依之此度其方へ書付之通扶持方被
 下連候以上
 
 
○同年十一月廿一日於大津
 壽慶様御死去被成候依之今日より
 明廿二日迄鳴物停止穏便申出候
 
  ○おほへ
 友由公御代
  享保二丁酉年
   九月十日
 御用召御奉書到来翌十一日御登
 城 御朱印頂戴ナリ
 友明公御代
  延享二乙丑年九月朔日
  惣出仕   名代浅野幾之助殿
 公方様御隠居之義被仰出之号知之
 上名代廻勤有之
 
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 同三丙寅年十月十一日
 御用召[のし免定上下]
 御朱印頂戴   名代松平右膳殿
 友清公御代
 宝暦十一辛巳年十月廿一日
 御用召 御朱印頂戴也
 
○天明五乙巳十一月十八日
 松平連之助殿へ招請之事
  今日御家督御祝儀招請有之
  若殿友福公御扣之処不快ニ付断也
○友福公御日記之内
 天明四甲辰
    三月十一日
 
 
一尾張大納言殿御参府ニ付為御待
 請九ツ時御供揃ニ而殿様[友随公ナリ]御出
 有之夜六ツ時被遊御帰候両度御伺
 ニ罷出ル
  同六丙午七月廿八日
一登城退出より松平又三郎殿今日初而
 御目見被仰上候歓時こふ見廻承相越
 用人呼出申置薩摩守殿ニも口上有之
 
 天明七未正月九日毘沙門へ代参
 塚本文平相勤
  當正月より十二月迄宿願
 右ニ付江戸詰中ハ今以毎月
 代参申付候事
 
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文化十四丁丑年九月
 當丑年より卯年迄十五ヶ年之間
 心願之義ニ付於目黒日護
 摩申付候山中多門代参
 相勤候事
 
文政六癸未年五月廿八日
 於附事兎角言語不分明
 故當未ノ五月より戌之五月中迄
 中三ヶ年之間於目黒日護摩
 申付代参棚橋庄兵衛相勤候
文政九丙戌ノ五月
 同断近々快方に候へとも猶又當戌より
 子ノ五月迄同断代参御長田十
 
 
 右衛門相勤候
 
文政九丙戌年九月
 於利雄事苗木へ登り候ニ付御
 関所手形之事
 於江戸近例相正候処見当無之
 御留守居用頼同様之石河甲斐守殿
 江留守居伺出内々例相頼申候処御
 同役方之内ニ而見当り申候由
 松平播磨守殿ニ而息女在所へ
 登り候例有之尤不快ニ付き湯治
 願之由也
 是又縁組等ニ差支候筋とも相
 
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 見へ候ゆへ此度之例不相成候事
 十月廿五日ニ左中出入坊主
 岩原幸伯方へ参り右例相
 頼候処廿六日登城致し而例書
 差遣候事
 
友随公御代
 
 
天明四辰年
 御家中部屋住之者迄行跡等之
 儀御達有之
同年
 諸芸術何流或ハ取次免
 許等之儀書出候様被仰渡
 有之部屋住請書差上候様
 御達有之

 寛政三辛亥年三月廿四日
 殿様御直ニ
      物頭神山利兵衛
     勘定頭塚本安兵衛
     江戸賄佐々木柳助
 
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 右被召呼左之通被 仰渡候
 武芸書算読書諸礼
 右之内身分強弱ニ随ひ
 一術二術ニ而茂可心掛候
 其外遊芸等茂応分限
 其職分ニ而心懸一段之事ニ候
 乍去乱舞蹴鞠等無益之
 事ニ候謡之儀者心掛勝手次
 第ニ候参勤後在所之者共
 勤向事少ニ可相成候間専諸
 芸出情可申候猶又委細之儀
 者役人共江申含置候間其旨
 追々及沙汰可申候且又留守中
 之儀者風儀別而大切ニいたし
 行跡加謹慎可申者也
 
 
  三月 右半切紙右筆書
 同年四月廿八日
一水野春沢渡辺玄豊呼出申
 達候者
 殿様御発駕前御家中三
 席へ芸術之儀 御直ニ被
 仰渡候則御医師共へも一統扣
 籠り被 思召候得とも殊ニ寄
 相洩候義も可有之哉依之従役所
 及沙汰候様被仰付置候間申達候
 医術之義随分出情可有之候御段ハ
 勿論之儀御留守中ハ別而風儀大
 切ニ相慎年若之衆中取廻可
 有之候尤老輩之面々迚も猶更之
 
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 義且又出情ニ付而ハ人を押下ヶ候
 心持も出来安候之間左候而ハ御
 家風ニ叶不申候間同役同門
 篤与和熟いたし出情可有之候
 惣而御医師之儀ハ 上よりも御懇
 意御取扱之儀外々ニ而も丁寧ニ
 致候物故御医師共よりも随分謙
 退辞譲第一ニ無之候而ハ不相済
 事ニ候間是等之儀篤与相心得
 可申旨申達候
 同日
一御発駕前御家中へ芸術被 仰
 渡候義給人通ニ而者相談之趣申
 聞候義も有之候得共次格よりハ沙汰
 も無之ニ付篤与相談之上申聞候様
 塚本安兵衛藤田宮五郎中根助市へ申達候
 五月二日
 
 
一塚本安兵衛藤田文五郎より此間被仰
 付候格合芸術之義昨日何レモ申
 談候処先年被仰渡も有之是迄
 も心掛候者も有之中ニハ差支等
 有之無拠致懈怠候者も有之候
 此上随分出情仕候様何レも申談候
 旨申聞候何分出情有之候様及
           愛拶候
 同々
一神山利兵衛より仲真馬術修行仕
 度依之馬壱疋相立候ニ付馬具
 拝借願
 五月八日
一佐々木柳助中根助市より以来
 芸術格合ニ而も出情可仕旨
 申出事
  右苗木役所日記ノ抜
 
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 宮地左傳次正彬家伝
上書
 元禄十六癸未歳年中行事覚
  序
 夫以雖夏至一日永其夜
 短乎雖冬至一日短其夜
 永乎蓋初永則無余也
 初短則有余奥万石
 財前多費則後之無
 余宝故憂之而始加於
 減少欲末之有餘慶也
 雖恒例祝儀令停止者
 
 
 招末繁昌矣后人精
 勘此道理而将求有
 補於癸未麁勤而巳
 于時元禄癸未孟夏上旬
 
  四月
一御下着之日惣侍中御供之
 面々江御料理軽して前々之通
一御参府之御礼相済申節之
 御酒者為待於後福令停止之
一御留主番相勤帰国之衆江
 拝領物為延当財無之
 
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  五月
一朔日式日之御酒令停止之
 者為後祝也
一端午之粽御酒共ニ延之者
 苗木之御城ニ而茂無之付而也
 但御上江ハ相応仕着上之
一庚申ハ奥江計江先例通也
一釜拂猿廻し前々通
一世上之御勤ハ先格之通
 
  六月     (以下朱書)
         寿考大殿様トアルハ
         泉州友春公ナリ系譜ニハ六
         月六日誕生トアリ六日ハ奥雲寺様
         御日柄ユへ七日へ御クりカエト被察候事
         (朱書末)
一七日大殿様御誕生御祝儀
 之御料理相応ニ差上ル赤飯も
 
 
 御上計也
一十四日祇園祭奥江赤飯差上ル
一嘉祥之素麺御上計御家中
 者差除苗木ニて無之
 
  七月
一五日御生身霊御料理御上
 先例之通御家中ハ軽く一汁
 三菜御料理被下之殿様被成
 御座所計也御留主之所ハ
 差延之
一九日若殿様御生身霊為御
 祝儀上江御料理御次通り若殿様
 衆并宅衛門権右衛門御勝手役
 人迄御吸物御酒被下之以後者
 
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 可為当番切也
一十五日蓮飯奥江計上ル東禅
 寺前之通
 
  八月
一八朔御酒差除者為招於後
 之余室也
一十五日御月見御上計相
 応ニし天差上ル表方差延之
 
  九月
一重陽ニ惣侍中江御酒御取
 肴被下之
一十六日神明祭赤飯御酒当
 番切被下之
 
 
一廿三日若殿様御誕生御
 祝儀惣侍中江御吸物御酒
 并一重宛也惣足軽中
 江御酒計[但足軽小頭ハ上下着用ニ付御吸物御酒餅被下之]
 以後者此御祝儀可為当番切
 之旨 御意也
 
  十月     (朱書)[寿考若殿様トアル与州友由公也](朱書末)
一玄猪先規之通
 
  十一月
一廿三日大師粥御上計ニ而
 侍中差延ル是者苗木ニて
 も無之也
 
55     画像(翻刻付)

 
一極月すゝ取松むかへニ御酒
 前々ハ被下候へ共即申聞差延ル
 
  正月
一元旦先規之通り
一二日惣侍中江○御料理一汁三菜也
一三日酉刻御謡初惣侍中江
 御さう煮御吸物御酒三献也
一七日七草之粥御上計也
一十一日御具足之御祝前之通也
一十五日之粥御上計也
一廿四日御姫様御誕生御祝儀
 御上前之通御料理餅差上之
 
 
 御相伴医師三人奥女中
 准上也
 
  三月
一上巳御祝むし餅御家中
 侍中計軽クして二ツゝ
  右一冊
  正彬より四代先守右衛門
  正意之筆ナリト左傳次申候
文政九戌年十一月廿九日写
  宮地守右衛門正雲後正喜  多門 正夸
  藤兵衛 正長  左傳次正彬
 
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文政九戌七月
一供頭堀尾左盛江納戸太田猪三
 を以左之通口達
  御乗廻し御殺生御出其外
  共凡而御略供ニ而御出雨天之節
  当御在城中以思召傘相
  用候様御免被 仰出候尤御規
  式并平日御佛参御出ハ是迄之
  通相心得候様此段申達候事
 徒士頭石原和平へも右之段噯ニ
 及置候事
 次向江も同断之事就右
 而者近習廻り御供御出之節
 ハ可為勿論候事
 
 
江戸役所日記之写
  文政四巳十一月廿九日
一御家中稽古断有之是迄
 色々稽古之者ニ而も一日ニ二
 度稽古出断不承届候処
 是よりハ稽古断之面々参り
 候先々ヲ申聞断候ヘハ二度ニ而も
 三度ニ而も断承届候旨三席へ
 咄置候様御目付へ申達候御次之
 面々ハ御側用人より達候様左中
 へ申達候
  詰合加藤岸右衛門小池傳兵衛也
  河内左中ハ側用人也
 同
 納戸日記同年十二月朔日
 
57     画像(翻刻付)

 
 御近習中他所屋敷江稽古
 出之義壱度罷出候得者両度罷
 出候義不相成彼是差支之義も
 有之ニ付昼前昼後と両屋敷ニ而
 稽古仕候節ハ壱度帰り断
 替罷出度段勘弁致呉候様兼
 而御側御用人迄内意有之由
 右ニ付此間申上段々相談有之
 至極尤ニも候間差免之段尤申
 日者稽古出半日ハ自分他出
 之義も断聞届度段被申聞
 御内々 思召相伺候処至極尤之
 筋ニ思召候依之御側御用人へ
 申述候処此方共より無急度
 達し候様被申聞 尤御近習計
 
 
 ニ而者無之御坊主へも右之趣故
 則鈴木庄司中嶋官六へ申達ス
 右者壱度稽古出仕候得ハ其
 日自分他行ハ勿論稽古出
 迄も決而不相成儀与堅く御定法
 と申義も無御座由ニ付右之次第
 也右両度出相成候義とハ相成候
 得共両度共自分之他出仕候
 義ハ堅く相成間敷事右之
 次第面々之都合宜計ヲ以出来
 事ニハ無之御屋敷へ時々立
 帰り候ヘハ時ニ依而ハ自然御都
 合宜敷筋も有之日ニ付而也
  納戸宮地一学より
  右之様申付候事
 
58     画像(翻刻付)

 
 文政八乙酉十一月廿七日
 側用人中原弥学へ申渡書
 付之写
  御次向之面々代行之義文政四
  巳年十二月朔日内伺之上
  稽古出之義者一日ニ両三度
  ニ而も被成御免候然ル処当年
  頃ハ左も無之や右者芸術之事
  ニ付而之義ニ候得者去巳年
  伺之上内意申渡置候通猶又
  相心得一日ニ両三度迄も御門
  出之義勝手次第ニ仕面々用
  事等相弁実意を以芸術
  出情可有之候事
   但稽古出先之儀ハ巳年
 
 
   申渡置候通篤与可申付候
   事自分用向計之外出
   ハ両度は決而不相成候
 右文政四巳年申渡し後中ニハ
 不実之他行を致候様ニも成行
 候処よりして実意ニ致候ものゝ差
 障りニも相成不宜事ニ候間
 右等之処を能々相心得可被申候
 中ニハ若輩之者共も候間仲真
 ニ而遂吟味相互ニ申談候様可
 被致候芸術之義ニ付而ハ一躰
 上ニも不一通被思召候義ニ候間御
 側向ハ別段ニ相心得其上他所
 等へも罷出候事猶更風義第一ニ
 相心掛表方之者の手本ニも
 相成行候様之心懸無之而者
 
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 思召ニ不相叶候事
 此段御沙汰ニ候間申渡候間能々
 相心得風儀ハ勿論倹約
 質素第一ニ心得毛頭異風成
 る義不仕実意を以相互ニ
 相嗜可被申候事
  酉十一月
 右之趣以書付申渡させ候事
 
 
 文政九丙戌年十一月
 於利雄苗木江登る供方之覚
 
  桃井養運[旅中諸事用懸り附属]長田十右衛門
 附属之心得
 十右衛門江申渡高井忠兵衛  徒士[小町傳左衛門 曽我斧三郎]
 下目付[可児十助 市川兵蔵]  宿取小川兵助
 草り取中間壱人  長刀  同壱人
 陸尺尾州雇六人  茶弁当 同壱人
 女中駕籠二挺   宿人足 六人
 同垂駕籠同二人  医師かこ同三人
 附属同同二人   両掛同二荷弐人
  [但表向乗懸願ひ入申候]
 
60     画像(翻刻付)

 
 替駕篭尾州三人   医師両掛宿人足壱人
 長持宿継四人    箪笥同三人
 乗掛本馬壱疋    用荷物本馬二疋
 合羽并雇之者着替荷 一疋
 女中両掛一荷一人
  合尾州雇十人
   宿継人足廿四人
   本馬  五疋
 泊附
 十一月七日    八日     九日
  大宮宿      熊谷宿    新町宿
 十日      十一日    十二日
  松井(田)宿   追分宿    長窪宿
 十三日     十四日    十五日
  諏訪宿      贄川宿    宮越宿
 
 
 十六日     十七日    十八日
  上松宿      野尻宿    馬込宿
   但野尻より着之触之処木曽路
   手間取候付馬込宿泊り相成候也
   十九日城着也
 
 文政九戌
 高木内膳殿方家事取〆り後
 役人之名前
  用人役       冨田丹下
  勝手賄方兼     冨田武兵衛
  [領所懸り奥懸り兼] 山田可也
 給人役        川添本務(モトム)
   領所懸り見習納戸方兼
 側          藤田作助
  隠居儀日勤
 
61     画像(翻刻付)

 
 側          冨田顕東太
 中小姓格右筆兼    三輪多助
 同          三輪運平
 同          冨田丈助
 徒士格        田村九郎右衛門
 右 猪兵衛方へ内膳殿より被
 差越候書付之写也
 古き書付之写
△延享二乙丑正月廿六日佐吉様
 御養子御願之節被仰上候覚
 亀井隠岐守様小笠原縫殿助様を以
 被差出
一遠山佐渡守儀和泉守養子仕候者
  享保十八丑年三月中奉願之
 
 
  同月中願之通養子被仰付候
一佐吉儀者
  享保二十卯年出生仕候佐吉儀従
  出生虚弱ニ付御届延引仕漸丈
  夫相成候旨元文五申年閏七月
  二男之御届仕候
一和泉守隠居佐渡守へ家督願之通
 被仰付候者元文五申年八月中ニ
 御座候
       ・・・家来
  正月廿三日    神山新左衛門
 右ハ本多中務大輔様へ調上ル
△宝暦八戊寅年二月源之進様
 御儀出羽守様へ御養子ニ御願被成候事
 新庄越前守様小笠原縫殿之助様を以御
 差出ニ付新庄様へ書付被遣候覚
一出羽守様を佐渡守様之御養子
 御願被成候由
  延享二乙丑年正月廿六日御用番
 
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  本多中務大輔様へ小笠原縫殿之
  助様を以差出候尤亀井隠岐守様
  御差添 其節出羽守様御年十一歳
 
一源之進様 御届
 寛延三庚午年九月廿八日御用番
 堀田相模守様へ小笠原縫殿之助様を以
 御届被成候
 宝暦八年 [出羽守様御年廿四歳源之進様御年十四歳]
一源之進様御誕生日延享二乙丑年
 二月六日と申上候実ハ延享四卯年
 二月六日也
 
 江戸麻布土蔵目付共預之内
 古き書付之内ニ
  友将 金性 帰納陽
  享保七壬寅六月吉
        中原良有
           敬考
 
 
   火姓
 友由     皈納由
 正徳六丙申六月
      中原良有
 此二通有之
 文政十一戊子年正月六日
 馬嶋瑞伯老被参候初而趣
 福田十郎太夫心得ニ而相伺候次第
 常憲院様御代馬嶋より出府
 之由其頃当屋敷へ被参候由
 元馬嶋之嫡子之由大一坊
 之弟子筋也馬嶋別家也
 
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 其後
 浚明院様江御目見被仰付候由
 なり
 天明八戊申三月五日
 友随公御朱印御頂戴於
 御書院御拝見也
 御祝ひ一汁三菜御酒御肴上ル
○四月七日
 山村甚兵衛殿招請有之
 坐付
 長のし  飛れ吸物  三ツ組盃
 銚子   山形寿る女
右事有之
 
 
  二汁五菜二段くわし     く王し=菓子
   台引友随公被遊候
 吸物一肴 [硯蓋坪大鉢さしミ]
 椀盛[くわし三色]煮染付]
  替重
 後段 うきふ 手塩香の物
 吸物一 硯蓋 太平
 右帰り之節ハ御袴也
 画師近陸出ル
 
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 文政十一戊子年
    七月三日
一役所より以宮地矢柄申聞候者
 雲林寺へ仏参之節是
 迄徒士頭供頭共帯刀之侭
 御灵屋内へ供致し来り候へとも
 以来は同所内ニ有之候刀
 懸ケへ懸ケ置供相勤候様
 ニ申達候尤神明八
 幡等へハ是迄之通相心得
 候様ニ申付候旨申聞候
  但是ハ右様ニ致来候士も
  右御灵屋内ハ自分ハ刀を
 
 
  抜キ徒士頭へ相渡申ししかる
  に供之者帯刀之侭令参
  義はいかゝと心付役人共へも
  及熟談候而去六月晦日
  に徒士頭鈴木能司へ小池
  馬伍二郎より相尋ねさせ候処同役
  申談候上可申聞旨尤供頭
  中へも相談し候様ニ相咄させ候事
  七月二日に右之次第格別申
  伝へ心得等之義も無之先々
  より何となく右様致来候段太
  田猪三を以堀尾左盛より申聞
  其段役所へ猪三より相咄させ
  猶直ニ相談可申旨申遣し置
  三日ニ役人共へ熟談之上今
  日右之通申付候事也
 
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  神明宮八幡等へハ是迄之
  通尤自分是迄刀を鳥
  居内ハさゝ春(ず)供ニ為持候
  得共以来ハ刀をさすまい
  神拝致しへりにアカリ候
  処ニ天脱刀之積ニ役
  人共へも及相談置候事
 
 苗木目(メ)付所日記ノ抜
 寛政六甲寅年
  八月廿八日
一江戸表去ル十八日被差立候町
 便着八月十四日殿様[我等事九歳]御水痘
 
 
 之御様子ニ付柴田玄愛様
 被成御頼候処十五日御出被成御
 極候右ニ付三席へ為御知
 有之伺御機嫌申上候
 右ニ付此方ニても三席へ為承知
 有之尤伺御機嫌ニハ不及追而
 御順快之後恐悦申上候様へ上下
 広間并御勝手へ申達候
  九月十三日
一当月六日出之町便着
 去月廿七日 殿様御水痘
 御全快被遊御酒湯被成御
 祝候依之 上々様へ御赤
 
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 飯壱重ツゝ御吸物御酒御肴二
 種被進之候中原平助御医師
 御次当非番へ不残肴一種ニ天
 御酒被下候御附女中へも同断
一右恐悦諸士帳面ニ天申上候
 尤穏便中ニ付十六日御申上候
  此穏便ハ徳川五郎太殿也
 右塚本文平より差出候
 書付之写なり
文政十二己丑年
 
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 文政十三寅年正月廿八日
 馬嶋瑞伯老被参十郎太夫へ
 差出され候書付之内
 御屋敷江御由緒之儀者私本
 家美濃岐阜馬嶋大智坊
 次男馬嶋瑞庵御国許ニ
 罷在候節 和泉守様御
 療治申上格別御態命被成下
 瑞庵義も江戸表江罷出博
 療治等仕度心願之趣御物語申
 上候処江戸表江出府致候ハゝ
 御屋敷江着仕候様如何様ニも
 致シ可遣旨厚御態命被
 仰下依之万治二亥年江戸
 
 
 表江出府仕候砌ハ御辞ニ随御
 屋鋪江着仕暫ク之間御長屋之
 内江被差置萬事御賄御世話
 等も厚被成下其後八丁掘亀嶋
 町辺江住居相極申候其砌茂
 引移為諸入用格別之思召を以
 御手元金百両頂戴仕候旨申伝
 罷在候只今以忘却不仕難有
 仕合奉存候無程
 公辺江被 召出
 御目見等仕難有仕合奉存候
 是等之儀も御屋鋪之御蔭ニ候間
 決而右御恩忘却不仕様代々
 私迄茂是又申伝罷在候下略
 
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 文政十二丑弥生十日
 去亥年参勤前ヶ条
 書を以申置候義有之一同
 承伏致候而大慶ニ存候然る
 処何れも勝手向之義者仕
 法を以一先訳合付候処よりして
 何となく心もゆるみ心得違之
 者も有之やニ及聞候たとへハ
 琴三味線等之義は其筋
 合を認め置候を全く差
 免し候抔と存候やニ而且又振
 舞馳走或ハはなむけ
 土産物等追々猥ニ相成か
 にて不宜事ニ候悉く改め
 
 
 てハ不申述候得共右申出候
 書付之趣猶又翫味(がんみ)致し
 一同熟談有度候且此度
 役人共より書付を以申渡候儀
 有之候間猶其格々ニ而篤与
 申談し心得違無之様可
 被致候当時世上之風俗を
 見習ひ候而ハ中々勝手向
 取続キ申義は出来兼可
 申与存候間兎角他を不用
 古風なる処を専らと仕り候様
 可致候併年若之者抔ハ何
 事も立派なる義を好ミ申候ハ
 人情之常当然之事ニ候間
 
69     画像(翻刻付)

 
 右等之所を年輩席上之
 者共常々異見を加へ可
 申候当年頃ハ別而大切
 之時節ニも候間深く相心得
 上下一同和融無之て者
 不相成事ニ候
右之趣存付候間口達如此ニ候
 右之段側用人島崎三五左衛門
 之存聞申て三座内達ニ
 及ひ申候扣也
 
 
極秘
天明三卯
 吉田兼登思めしニ不相叶御役
 御免被仰付候側用人也
 右何等之事ニ天有之やと或
 時吉田へ相尋見候はゝ何も外ニ
 是と申候簾もなく候得とも其
 頃勝手筋之事ニ天六ヶ敷
 義も有之 友随公思召何に可
 不応義も有之かニ天世間ニ
 天辺々取沙汰も別ニ有之恐入候
 事も有之趣ゆへ御政事向ハ申上
 候筋ハ無之候へとも万事思召之
 外之義も出来候てハ恐入候事ゆへ
 能々御心得被遊候様ニ申上候事
 も有之夫より両三日相立候而御役
 
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 御免被仰出候と之咄也右之
 全く御政事筋之義を御政
 事懸ニ無之仁より申上候事
 故と存候との事也
 
天保六乙未年
 此度表門并長屋向
 修覆仕候ニ付文化三
 寅年類焼以前之通
 表門江紋所別紙絵
 図面之通附申度此段
 奉伺候以上
 
 
     遠来
 閏七月十一日  福田十郎太夫
 
(図)
 
 書面伺之通り門江紋所
 附之儀承置候
 
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 御目付曲渕勝次郎殿へ
 差出候所十四日付札を
 以差図相済
  十九日朝役所二つ
  出来大工中島常次郎
  より献上なり
 廿二日早朝用懸り目付
 太田猪三作事奉行小
 栗罷出候開門ニ而初而
 出ル 松はするめ遣之
 
 

天保二辛卯年二月朔日
一松平周防守様御勝手江罷出
 公用人面会兼而御内慮御伺被
 置候御紋形張御引替相済候ニ付
 右御届書并已来者
 殿中丸ニ二ツ引并丸之内ニ九字ノ
 図御紋御取更被成御用召御届書
 入御内覧候所思召茂無御座候間御用
 番様江御勝手次第被差出候様御
 答有之候
一御用番水野出羽守様御勝手江罷出
 前書御届書弐通公用人面会入御内覧
 候所思召も無御座候旨ニ付直ニ表江差出
 落手被成候旨御取次ヲ以被 仰出候
一御頼大御目付佐野肥後守様御頼御目付
 
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 曲渕勝次郎様江今日御用番様江
 御届有之候御紋之儀ニ付御届之書
 面写持参御口上申述候尤御両方共
 御用人呼出
     右福田十郎太夫相勤
  二月五日
一御用番水野出羽守様より今日中
 御呼出ニ付罷出候所先日差出置候
 以来
 殿中向二ツ引御紋并九字之図御紋
 御取更御用被成候旨御書面へ御付
 札有之御渡
     右福田十郎太夫相勤

文政十三庚寅年六月廿二日
一松平周防守様御勝手へ是迄
 
 
 殿中江御用無之御紋以来者取更
 御用ひ被成度且寛政之度調落之
 上り藤紋所書加へ差出度御内慮
 御伺被成候所御書取ヲ以御差図済之
 御挨拶
  但シ御在所表より被仰付越候趣ニ而
     右福田十郎太夫相勤
    六月廿六日
一御目付曽根内匠様より 御城中ノ口江
 御呼出ニ付罷出候所先日差出置候寛
 政之度調落之御紋書加其節御差出
 被成度右書面へ御差札ニ而帳面取調
 一両日之内ニ都合次第差出候様御達
     右福田十郎太夫相勤
 
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    七月二日
一御城中ノ口江罷出於蘇鉄之間御徒
 目付小嶋三十郎へ
 御紋形帳二冊相渡候所落手之旨愛
 拶有之候
     右福田十郎太夫相勤
 
 
○江戸芝 福田家本ノ内ニ
 千村平右衛門殿屋敷拝領は元和二辰年
 台徳院様より拝領のよし 月日不知
  景氏一考 寛文三年山村氏屋敷拝領之
  岡田豊前守殿ニモ代々将監殿与申候其頃迄ハ
  当時之新掘無之与相見へ将監橋ハ岡田の
  屋敷跡故相唱申候事新き掘ゆへ新掘
  と申候か
             九月二日
              御徒目付 安勢知(アセチ)専左衛門
              絵図奉行 鈴木与三右衛門
(図)
                  右両所被参被申渡候
                  者屋敷絵図相
                  調兼松下総守殿
                  へ差遣候様ニとの
                  事ニ候
    寛文三癸卯暦
       九月四日
 右之分認山村七郎右衛門殿一所ニ兼松下総守殿へ
 差遣申候
 
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   覚
一銀百五拾枚   献上仕候
 銀壱枚ニ付
 四十三匁
  此銀六貫四百五拾匁
 三拾弐匁五分替
  此金百三両三朱ト
         七分五リン
  内 金百両  酉ノ三月 献上
 引残
   金三両三朱ト七分五リン
         此残八十二文
        此度献上
   〆銀百五拾枚也
 右之通献上仕候宜御披露
 
 
 御取成奉願上候以上
   天保八年丁酉十月   古田孫七郎
                政恒 花押
  土屋四郎左衛門様
  小栗三郎四郎様
 右者献上之目録之写也
 土家より見セ候ゆへ納戸ニ写取セ候
 扣也
   酉三月十五日忰清六登城
   持参献上也
   百両ハ用達四人へ借付ニ相成
   権平右藏源兵衛五郎左衛門へ
   余は納戸江渡ス
 
                完