濃州苗木領分之内 田瀬村外拾一ケ村役人惣代之者共ヨリ 書上候願書の内抜書

濃州苗木領分之内 田瀬村外拾一ケ村役人惣代之者共ヨリ 書上候願書の内抜書[目録]


<翻 刻>
 
管理番号「三六」
史料館遠山家文書 二七九番
 
2     画像(翻刻付)

 
     濃州苗木領分之内
     田瀬村外拾一ケ村役人
     惣代之者共ヨリ
     書上候願書の内抜書
一 私共村々の儀其信州飛州両国へ
  堺山中の村方ニテ至って地味悪敷
  殊冷気勝故惣じて 作物不熟の
  土地柄極難渋の村方に有之尤
  田瀬村初拾弐ケ村共手明け村
  とは乍申中山道大井中津川落合
  右三ケ宿へ助郷相勤申同領恵那郡日比野
  村外拾ケ村にて高千石に付人足
  千人相勤候節は領主より右余荷
  として平均割賦被申付助郷勤
  罷有候処近年打続大宛りにて
  毎年多分割賦懸り来り定助
  同様の儀にて素より難渋の村々弥増
  困窮に及候折柄贄川宿外宿々
  より差村被致誠以驚入此上に助郷
  被仰付候共御差支は眼前の儀にて
  実以当惑至極に奉存候
一 私共村々より右宿方へ罷出候途中
  山坂多く至て難所にて其上渡船
  場所有之就中(なかんずく)上地川と唱しは凡
  百廿間余の川幅にて往古より夜越等
  決て不仕右は木曽山より流出候荒川
  にて平日迚(とても)茂水勢早く纔(わずか)の雨
  降にも出水仕人馬渡船相止通路
  不相成候に付時節寄両三日以前より
  渡船不致候ては御役難相勤左候得は
  川明相待帰宅仕候まで前後五六日
  余も逗留仕候次第に至り夫のみならず
  私共村々より今般差村いたし候宿方
  までは難所を越え道法凡拾里
  又は村方により寄弐拾里も在之候間
  早朝罷出候ても触当日の
  間に合不申殊に前段奉申上候
  通り上地川夜越は無之候間前日より
  不罷出候ては役難相勤候に付一日の
  御役相勤候にも数日相掛り農業
  も不行届自然遅参不参は
  勿論御用御差支歴然にて往々
  村方及退転よりより外無御座必
  至と難渋仕候間此段御賢察奉
  願上候
一 右差村の内中之方村切井村
  飯地村此三ケ村の儀は天明元年
  大井宿より同領河合村へ助郷被
  仰付候処小村にて難相勤候に付領主
  より右三ケ村へ又助被申付其以来
  助郷相勤来り定助同様にて難渋
  仕候
一 差村の内飯地村にて塩見と申処
  家数九拾壱軒外村々にも五六軒
  ずつ御軍役手当として足軽
  披官へ申付又は遠国御番へ
  仰付候節は同断平常迚も足軽
  入用の節は罷出相勤候間諸品
  伝馬等相勤不申候
一 私共村々の儀は野山にて一ケ村毎領主
  立林有之候に付野火山火の火災度々
  有之候故右為手当村方に応分
  消防人夫被申付候処他行など不
  相成其上猪鹿多く田畑荒
  候の間領主より漁師鉄砲貸渡
  有之種蒔の頃より収納時節は
  昼夜見廻り候故聊(いささか)寸暇無御座
  難渋の村柄にて誠に難儀仕候
一 木曽山より流出候前書上地川
  の大河元来荒川にて水増渡船
  破損致其外付知川加子母川
  飛騨川是又年々度々の破損
  所にて普請人夫多分相掛り其上
  家中給所普請被申付甚難渋
  仕候
一 農馬の儀も辺鄙(へんぴ)の場所故
  駄賃馬等一切無之農耕糞
  取馬故弱馬のみに有之中々以本
  馬等には難相用人夫の儀も元
  来山坂の村々故背負荷のみ
  に御座候間長持其外貫目重
  之荷物駕籠人足等は迚も
  難相勤甚難渋仕候
一 私共領内村々の儀至て辺土故
  歟往古より疱瘡不仕の風俗にて
  若疱瘡相煩ひ候者も壱ケ村
  に拾人とは無御座候付右病流
  行の節は領主用向にて城下へ
  罷出候も恐怖仕候程の儀に付
  領主より右為手当之城下近
  辺江疱瘡小屋と唱五間ニ
  七間の定小屋被建置万一
  疱瘡相煩候者右小屋へ入置
  介抱行届候様に備へ有之候得共
  右の病人召連通り候途中の
  村々及迷惑候間城下に隔り候
  村々にては無是非人家に遠き
  山奥へ仮小屋補理他所より
  看病の人相雇候故多分の
  雑費も相立猶又寒気の砌(みぎり)は
  仮小屋の手当も不行届一命
  にも相拘り極困窮者は潰に及
  候次第に至候儀に付流行の節
  に無之共他所へ罷出候も悉く
  遠慮仕候儀に付外々にては不
  存申儀にてまったく私の儀とは乍
  申其処に住居のものと成り申ては
  実に難渋仕候右の始末に御座
  候得は恐怖の余り不思も遅
  参不参も出来可申哉と村役
  人共一同心痛仕候儀に御座候得共
  余り不都合の儀に付空言の様
  御賢察の程も恐入候得共往古
  より右の風俗故既に右宿々より
  差村被致難渋当惑いは奉
  存候得共右始末故銘々他所
  出を厭差控居候処去戌年
  村柄の御見分も被為在候に付
  村々小前村役人等只管(ひたすら)相嘆
  候に付無余儀私共為惣代出府
  仕極難渋の始末御嘆願奉
  申上候儀に御座候間 御賢慮
  奉願上候
  前書箇条の通誠に以難渋
  の村々に有之右の外飛騨
  高山御役所御役人様方御
  交代其外御用人馬相勤候村方
  も有之其餘領主より旧来差
  定り候夫役等も相勤且また私共
  村々よりは余程宿方手近にて
  是まで助郷相勤候村々も農業
  繁多の時節または上地川
  出水河留にて宿方の人馬
  雇有之候節は倍増し雇賃
  銭相掛り候由然るに私共村方
  の儀は前書奉申上候通格外
  里数も相隔殊更人馬払底
  にて迚も正人馬にて御継立不行
  届実に極難困窮の村方
  御用の御差支は眼前にて万
  々一助郷被仰付候ては往々
  退転可致より外無御座候就中
  天保四巳年同七申年打続
  凶作にて弥増困窮に陥り当日
  凌兼無余儀他村稼に罷出
  または離散等仕候者も有之
  右の潰跡組合にて夫々世話
  仕候得共元来土地悪敷其上
  荒地に相成候地面故年々
  弁納致候次第にて其段村役
  人より領主役場と申立免
  曳相願又は手当金願下ケ
  等仕漸々相凌候村柄も有之
  誠以って当惑難渋至極に付無
  是非出府御愁訴申上候
  何卒格別の以
  御慈悲前書難渋の逸々
  被為聞召(きこしめなされ)訳(わけ)差村御免除被
  成下置候ハバ村々大小の百姓
  無難に永続相叶莫大の
  御仁恵と難有奉存候幾
  重にも
  御憐憫にて御沙汰奉願上候以上
 
    遠山美濃守領分
     濃州恵那郡
 嘉永四辛亥年五月  田瀬村
           中之方村
        同領分同州加茂郡
           越原村
           神土村
           黒川村
           切井村
           赤河村
           犬地村
           上田村
           福地村
           峯下立村
           飯地村
     右拾弐ケ村
      小前村役人惣代
     右田瀬村兼帯庄屋
        福岡村
         仲右衛門
        福地村組頭
         佐右衛門
        同村百姓代
         兼三郎
   道中
    御奉行所様