風聞之趣申上候書付
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一(十一通)
1 画像(翻刻付)
風聞之趣申上候書付
酒井但馬守
根岸肥前守
2 画像(翻刻付)
嶋津三郎儀去ル四日桑名宿出立伊勢
参宮者不致[此儀兼々四日市宿江伊勢宿廻り人馬 賃銭等之儀三郎家来より聞合有之候処]
[俄ニ見合 相成候旨]同日石薬師宿休関宿泊一昨五日同所
出立石部宿泊之積然ル処同日日光
御門主草津宿発輿土山宿御泊ニ付
道中行違等之斟酌か俄ニ関宿より
伊賀越道士嘉太宿[関宿より一里半程 西南之方之由]柘植宿
夫より字曽間通り[東海道 南裏在道]石部宿江着
尤右脇道継立之人足者[関宿より石部宿迄 壱人金壱分弐朱宛]
[之積凡百人余 雇上候由]相対雇其餘荷物并宰領
軽輩之分東海道筋通行石部宿江
一昨五日夕落合昨六日大津宿泊之趣
相聞申候
一三郎儀一昨五日関宿より脇道廻り相成候ニ付
右之趣宿方より道中御奉行所江御届差出
候積ニ付同家よりも同様之取計ニ可有之旨
三郎家来江宿役人共より心付旁承り候処
宿方より者勝手次第ニ可致旨ニ而取合
不申かニ相聞申候
一三郎家来之内異人及殺害候もの名前
人相恰好等探索早々可申上旨兼而
但馬守殿より馬場俊蔵江被仰渡之趣
申越承知仕前以精々内探罷在候処
去ル四日三郎家来之内新納源左衛門
[此もの異人及殺害候由 風聞者兼而申上置候]外拾人壱組ニ而
関宿玉屋利右衛門方江止宿右供中間
之内壱人[源左衛門 中間か]利右衛門下女江不計
雑談之紛神奈川ニ而異人討取候者
主人并[此儀源左衛門ニ 可有之か]軍次新助之申聞候由
右拾壱人者
新納源左衛門
日高軍次郎
志和地新助
山田材助
岡村休左衛門
大脇銀九郎
同 弥兵衛
日高次右衛門
石塚新之助
森田仲之丞
岩本矢次郎
〆拾壱人
外中間八人
右之通同宿之趣ニ付書面源左衛門
軍次郎新助ニ者無之哉抔風聞仕
尤多人数之儀人相恰好等更ニ見覚
無之趣ニ相聞猶此上得与探索可奉申上候
右之不取留儀ニ候得共承込候侭奉入
御聴候以上
東海道水口宿御用先
関東御取締臨時出役
戌閏八月七日 渡邊慎次郎
参政中之書付(二)
京地探索之儀申上御書付
<翻 刻>
管理番号六一
遠山家文書史料番号三三一(十一通の内)
1 画像(翻刻付)
京地探索之儀申上御書付
酒井但馬守
根岸肥前守
2 画像(翻刻付)
京地風聞探索仕候趣左ニ奉申上候
一中山正親町遠慮中追々
禁中より厳重之御沙汰可有之哉之風聞
ニ候処此程右両家共遠慮差免相成
候由ニ御座候
一薩長之間隔意を生し候哉ニ而内々
廣橋殿取扱有之哉之風聞御座候
一廣橋殿当月四日急病ニ而薨去同六日
表爰三日之間洛中鳴物停止触有之
候儀ニ御座候
一大原殿当月六日帰京相成候処御同人儀
江戸表おいて子細不相分御速答被申上候
廉有之哉ニ而
御所内首尾不宜候由内々風聞御座候
一嶋津三郎儀当月六日大津宿泊翌七日
暁八時頃同所出立朝四時頃京着直ニ近衛殿
江罷越同日夕七時頃退散いたし尤中山正親町
も同席之由同九日四時頃近衛殿江三郎
罷越同日夕七時頃同所立出
御所通用門より参内いたし候儀ニ有之
其以前
御同所より三郎江四品中将之内命有之哉之
風聞ニ御座候且同人参内之節中山
正親町外四人程是又参内いたし候哉ニ
相聞申候
一当月六日嶋津三郎儀大津泊之節同人
道中目付より同宿年寄文七与申者本陣江
用向有之出合立聞いたし候処前後不分
異人殺害之節大山仲兵衛海江田武次も
加り居候哉之由相洩承り込下宿帳取調候処
両人名前有之候趣風聞仕不取留儀ニ者
御座候得共申上置候
右風聞探索仕候趣書面之通御座候猶
追々探索之上可申上候得共不取敢此段
奉申上候以上
関東御取締出役
石井鑵之助
戌閏八月十一日
同臨時出役
渡邊慎次郎
参政中之書付(三)
上
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
1 画像(翻刻付)
上
酒井但馬守
根岸肥前守
2 画像(翻刻付)
武州多摩郡三ツ木村百姓粂次郎女房とき与
申もの去月中旬頃より不快之処同十七日夕より腹
痛甚敷両三度吐有之悉相脳薬相用候折柄
隣村親類共罷越介抱罷在候処とき者追々快方
仕右親類之もの俄ニ同様之病症ニ而難渋之体ニ付
同夜居宅江送り返シ候処翌十八日至り両人共病気
致全快然ル処同日昼九時頃粂次郎方ニ而鼬ニ似寄候
異獣座敷江上り候をとき儀見受候より忽チ身之毛
立追出候処軒下ニ而飼猫与喰合候ニ付同人儀薪を以
右異獣を打殺篤与改候処見馴不申獣ニ有之
隣家之もの共打寄及評義候処恰好鼬之様ニ者
候得共面長く鼻口腹大きく常体鼬与者違ひ
何連も不見馴獣之由申之折節医師罷越見受
右者異国ニ而ヤマイソ与唱日本ニ而ヲサキ狐ニ等しき
獣ニも可有之旨申聞候由之処村内百姓平十郎与
申もの鼬ニ相違無之迚皮を剥居合候もの共打寄
煑候而不残食し候由ニ而当時胴之皮而巳相残全
形相分兼右者近隣之もの共コロリ狐与唱
右之毛所持仕候得者流行之病除相成候由追々
風聞仕右村宛寄之儀去月中旬より急病相煩候
もの流行仕何連も四肢悉按摩いたし候得者
ふくれ候場所出来右江針を差出血いたし候得者
直ニ全快仕候もの有之哉ニ而全右之異獣諸人江
悪気を移為脳候義ニも可有之候得共異国より
渡来いたし候獣之由抔専ら風聞仕候間麁
絵図壱枚相添此段奉入御聴候以上
内藤新宿御用先
関東御取締出役
中川孫市
閏八月三日
同臨時出役
加藤泰輔
参政中之書付(四)
京地之風聞之趣申上御書付
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
1 画像(翻刻付)
京地之風聞之趣申上御書付
酒井但馬守
根岸肥前守
2 画像(翻刻付)
京地之模様探索又者承り込候風聞之趣
左ニ奉申上候
一毛利大膳大夫殿在京有之河原町三条
屋敷表通り町家長四十間程買上相成黒板
ニ而長屋様ニ囲出来右内ニ家来之者住居罷在
尤大膳大夫未参内等無御座且息長門守殿ハ
去月江戸表江下り相成右分家毛利安波守殿
柴野大徳寺寺中大場院ニ滞留有之同
寺門前町家壱軒借受下部之者住居
罷在候儀ニ御座候
一薩州家者屋敷町家買上相成其餘京
都□寺町御池日蓮宗本能寺亦者寺町
今出川禅相国寺借受相成尤家来之
者日用飯米等者国許より白米ニ而差登し
候由京都之売米者一切不買上哉ニ相聞申候
一土州殿去月廿六日凡弐千人程之同勢之由ニ而
上京洛西妙心寺ニ逗留有之尤子細不
相分候得共前町等ニ而家来之もの噂いたし
候ハ三ケ年程在京之由申聞候哉ニ御座候
一筑州阿州因州右三家之家来上京有之
因州家ニ北野松梅院借受方掛合中之由
其餘国持方家来之者内々京地之模様
為見置上京いたし居候哉ニ相聞申候
一久我岩倉千種富小路右四家共
禁中より厳重之御沙汰有之別而久我
富小路両家者重く入道之由御座候此上九條
殿始中山正親町追々御沙汰有之哉之
風聞ニ而右ニ付承り込候儀も御座候得共区々
之説ニ付当時探り中ニ御座候
一島田佐兵衛権大尉を及殺害候者者薩藩
之者由相聞申候
一長野主膳三浦七兵衛等附睨らひ候者有之
哉之処主膳者国許ニ而致手当七兵衛者国許
江罷越候由ニ御座候
一薩藩重役之者寄々近衛殿江出這入いたし
候哉ニ相聞申候
一加州家京都河原町三条屋敷前通り買上
板囲等出来候儀ニ御座候且同家江戸家老市川
三次郎上下二十二人久我家江罷越候由ニ而上京
いたし去月下旬江戸表江罷下り申候
一仙台家国家家老遠藤文七郎儀上下六拾八人近衛
殿江使者之由上京いたし滞留罷在候儀ニ御座候
一島津家者勿論家来之者ニ至迄京都市中
ニ而諸品買上又者日々雇上候人足等之賃銭
迄価之高下不論候由ニ而右等ニ不拘候者も聞
伝京大阪伏見辺迄同家を敬ひ候者有之由
其餘三郎上京之上者諸色下落致し候抔
申唱同人并大原殿帰京之上之模様窺
居候者有之哉ニ相聞申候
右風聞又者承り込候趣書面之通御座候尤京地
之説区々ニ而不取留事而巳多兼而被仰付候廉ニ
追々探索中ニ御座候得共不取敢此段為御含
奉申上置候以上
戌閏八月 関東御取締出役
石井鑵之助
参政中之書付(五)
京地探索之趣申上御書付
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
1 画像(翻刻付)
京地探索之趣申上候書付
酒井但馬守
根岸肥前守
(文中の割注は全て朱筆)
2 画像(翻刻付)
京地風聞探索仕候趣左ニ申上候
一島津三郎儀参内之上[奏者処江罷通夫より公卿 之間罷出候哉ニ相聞申候]
四品中将之内命有之候哉之趣申上置候処
全風聞迄ニ相聞然ル処此節風聞之趣ニ而ハ
松平修理大夫殿三位中納言三郎者四位
和泉守ニ被任候由専風聞ニ付相探候処疾与
不取留候得共為御含申上置候
一細川越中之守殿無程上京有之候趣ニ而京
都妙心寺寺中[松平土佐守殿も右寺中 滞留之儀者兼而申上置候]借受
仮建物等いたし候哉ニ相聞申候
一松平大膳大夫殿自屋敷并所々宿寺等有之
候処猶先頃蹴上ケ江[京都三条橋際より 凡拾五六町大津之方江寄候通路]
間口凡百弐拾間余奥行六拾間余之地所
買取丹州筋并嵯峨材木屋江木品四
万本余注文申付候処故障有之候由ニ而
[此儀嵯峨ニ而右様多分之木品 被買上候而者諸渡世向ニ差支候由ニ相聞申候]紀州におゐて
山林買上運送之上屋敷取建候積之由ニ相聞
申候
一松平内蔵頭殿此度参府序品ニ寄上京
之上滞留有之哉も難計兼而旅宿等之
用意いたし置候様京都用達江内々申来
候由ニ相聞申候
一有馬玄蕃頭殿家来之内重役無程上京
滞留ニも可相成間旅宿其外諸事無差支
様可取計候旨同家来より京都用達江内談
いたし候由ニ相聞申候
一当月四日申上置候井伊掃部頭殿家来
永野主膳去月中同家ニおゐて死罪仕置
相成候哉ニ相聞申候
右者風聞迄之儀ニ而不取留儀ニ御座候得共為
御含奉入御聴候猶探索之上追々可奉申上候
以上
京都御用先
関東御取締出役
戌閏八月十六日 石井鑵之助
同臨時出役
渡邊慎次郎
参政中之書付(六)
風聞之趣申上候書付
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
1 画像(翻刻付)
(二行朱筆)
戌閏八月三日酉中刻出
同月十二日卯下刻着
風聞之趣申上候書付
酒井但馬守
根岸肥前守
(文中の割注は全て朱筆)
2 画像(翻刻付)
勅使大原左衛門督度并嶋津三郎
一昨朔日熱田宿江字宮宿(三字朱筆)泊相成
三郎先着程過左衛門督殿宿入之
節三郎関札少々横ニいたし置候
迄ニ而下り之砌も同様之趣ニ相聞
尤三郎者勿論同人使者可又者
重立候家来抔
勅使本陣江罷出候者無之哉ニ候得共
左衛門督殿道中目付喜多村内膳
旅宿江者三郎家来[士分以上 之由]時々
罷越[宿より名札取次等いたし候儀無之 名前分り兼薩州家来之趣ニ而]直ニ
内膳居間江通り談話いたし昨二日
早朝同人儀三郎家来を
勅使本陣江同道いたし[此義佐屋川 通船六ケ敷趣]
[佐屋宿役人より届出候ニ付 右出立討合可有之旨ニ御座候]暫く相立本陣
引取候上左衛門督殿者同日桑名宿
泊佐屋川差支候ハヽ佐屋宿泊之
治定[此儀昨二日桑名宿江無滞 着輿之風聞ニ御座候]三郎者同日
熱田宿滞留今三日桑名宿泊治
定之趣宿方江申達候由ニ而右之外
何ニ而も相替候儀相聞不申候
一吉田宿より申上置候左衛門督殿供方
之内江薩州家来拾四五人入交居
候儀無相違歟ニ候得共何れも青士
之内江入混都而京家先触ニ而通行
致ニ付名前等分り兼候由ニ相聞申候
右風聞之趣不取敢奉入御聴候以上
東海道熱田宿御用先
関東御取締臨時出役
戌閏八月三日 渡邊慎次郎
参政中之書付(七)
風聞之趣申上候書付
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
1 画像(翻刻付)
(二行朱筆)
戌八月十九日未中刻出
同月廿日暁寅上刻着
風聞之趣申上候書付
酒井但馬守
根岸肥前守
2 画像(翻刻付)
先日奉申上候九条殿御家来島田左兵衛権
大尉儀生国江州彦根ニ而生れ付才発之
ものニ而京都江罷出同殿御家来ニ相成追々
立身いたし諸方より之内願筋程能取扱候
故門前ニ音物釣台無絶間程之儀ニ而追々
富有ニ相成諸侯方同様之暮方いたし京都
堺町通丸太町下ルコト住居罷在候処先達中より
何者共相知不申夜分度々門前江罷越子細者
不相分候得共首を取ニ参り候由申候もの有之其度ニ
左兵衛儀者程能逃去然ル処当六月下旬之頃
面体不見知もの六七人同人宅江踏込是非首を
渡セト申候処右混雑ニ同人何方江歟逃去候ニ付致方
無之右六七人之ものも立去然ル処当七月廿一日夜
木屋町通二条下ル処妾宅ニ左兵衛隠れ居候を
見出し踏込同人を引出し両腕を切落シ猶亦
首を打取胴柄者高瀬川江打捨同廿三日早朝より
右首を木之先江突差獄門同様ニいたし首之前ニ
桧弐尺計之板ニ左之通
此島田左兵衛権大尉事大逆賊長野主膳与
同腹いたし不謂奸曲を相巧ミ天地不可容大
奸賊也依之加誅戮令梟首者也
文久二戌年七月
右之通書付有之市中之もの共右風聞承り見物
人夥敷出候由其後右首如何相成候哉相分兼申候
右長野主膳者彦根之藩ニ而京都詰留守居之由ニ
御座候
一大原左衛門督殿江今般近衛殿より御使近藤式部
権少輔江附添参候薩州医師藤田良節儀
宿ニ泊之節者同人より本陣江申付酒肴金壱両
壱弐分ツヽ□(送)り毎夜式部権少輔江差出候由ニ
御座候
一薩州ニ而横浜表ニ罷在候英国壱番弐本檣
蒸気船一艘代拾弐万トルニ而買取昨十八日家老
其外乗組横浜出帆国許江罷越候由ニ御座候
右者風聞之趣奉申上候以上
東海道保土ヶ谷宿御用先
関東御取締出役
戌八月十九日 喜多村解輔
参政中之書付(八)
隠居料之儀ニ付再願書
→ 現代訳
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
1 画像(翻刻付)
隠居料之儀ニ付再願書 水野痴雲
2 画像(翻刻付)
私儀先達而病気ニ付御役
御免隠居奉願候ニ付而者若忰甲一郎江
是迄被下置候御切米為隠居料被下置候
御儀ニも候ハヽ近来御物入多く殊ニ当節
諸向御人減ニ而勤仕並等被 仰付候折柄
何共不本意至極恐入奉存候ニ付為冥加
隠居料不被下置候様仕度段奉内願置候処
別段御沙汰之次第も無之御切米為隠居料
被下置候旨被 仰渡御仁恵之程身ニ余り
誠以難有仕合奉存候乍然近来御費用
多ニ而既ニ御収納之壱倍以上ニも罷成候段
昨年中被 仰出候趣も有之候折柄先年
御勘定奉行之節百石御加増も被成下候処
今般隠居料等頂戴仕候而者尚更以恐入
奉存候儀尤格別之御仁恵ニも御座候間
家族厄介多等ニも有之候上者右等之手当者
勿論家来扶助筋ニも差支候事故其侭
難有頂戴可罷在候得共幸当時私儀惣領共
男子両人嫡孫壱人而巳ニ而厄介少之義ニも有之候間
如何様共仕朝暮相凌可申既ニ勤仕並被 仰付
元高ニ相成候者共も有之殊御勝手筋御役も相勤
昨年中之被 仰出も有之候砌隠居料頂戴仕居候而者
何共以不本意至極ニ奉存候間再応奉
申上候者恐入候得共此上自然厄介多ニも罷成候歟
又者弥増物価沸騰ニも及候ハヽ頂戴之儀可
奉願候間当節之処ニ而者最前奉願置候通
隠居料者上納仕度全く不行届之身分
是迄格別結構被召遣候処病気ニ付無拠
隠居奉願候に至り一身之冥加迄ニ御座候間
何卒願之通被 仰付候様仕度依之御蔵
御証文不奉願此段奉再願候以上
戌十月 水野痴雲
書面再応願之趣奇特之儀ニ者候得共隠居
後遠国御用をも相勤骨折候ニ付別段
之訳ヲ以其侭隠居料被下置候旨御書
取ヲ以被 仰渡奉承知候
二月廿日 水野痴雲
現代訳
隠居料について再願書
水野痴雲(水野新兵衛)
私は、先日より病気のため御役を免じていただき、隠居をお願い致しましたが、若し忰甲一郎へ、これまで下さいましたお切米を、隠居料として下さることでしたら、近頃物入りが多く、ことにこの節は各方面で人を減して勤務を命じられます折から、何事も不本意この上なく、恐れ入りますが御助けとしての隠居料は下されないよう内々お願いしておきましたところ、別段のご指示もなく、御切米を隠居料として、下さるよう命じられ、御思いやりは身にあまり誠に有りがたく幸せに存じます。ところで最近は諸費用が多くて、既に御収納の額の倍以上にもなりますことは昨年中命じられました事情もありますが、折しも先年御勘定奉行の時に百石御加増下さいましたところにこのたび、隠居料など頂戴しましたならば、なおさら恐縮に存じます。
ただし、格別のお情けでございますので、家族同居人なども多く居りますことから、右の手当てはいうまでもなく、家来の扶助などに差し支えもあり、有りがたく頂戴しておりますが、幸い私は後継ぎも男子二人と孫一人だけで、同居人も少しでありますので、どのようにしてでも日々を凌いでいけます。既に勤めを命じられて、元の給与高を頂いている者も有り、殊に会計役も務めています。
昨年中の御命令もありました折り、隠居料を頂いておりましては、何とも不本意至極に存じますので、再び申し上げるのは誠に恐縮で御座いますが、この上同居人が多くなるか、又は物価が高く上がるようなことが有りましたなら、頂くようにお願い致しますので、今は先にお願いした通り隠居料は上納致したく、行き届かない者をこれまで格別に目をかけ使って頂きましたが、病気になり止むを得ず隠居をお願いすることになり、身に余る御恩に存じますので、なにとぞ願いの通り御命じ下さいますように。
御蔵御証文はお願い致しません。この事を再びお願い申し上げます。
戌十月水野痴雲
書面の再願の趣旨は奇特のことであるが、隠居の後も遠国の御用も勤め苦労したので、格別の訳を以てそのまま隠居料を下さる旨、御書取りを以て命じられました。したがって承知を致しました。
二月廿日 水野痴雲
参政中之書付(九)
小普請組支配
翻刻
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
2 画像(翻刻付)
私共支配之面々於講武所銃隊調練稽古
可仕尤私共ニ茂罷出指揮仕格別骨折
世話可仕旨文久元酉年十月五日久世
大和守殿御覚書ヲ以被 仰渡同二戌年
五月十三日於吹上支配組共銃隊調練
上覧被 仰付候程之儀ニ而支配向調練
厚御引立茂被為在候ニ付一統格別ニ骨折
出精仕業前茂相応ニ熟達仕候処一昨亥年
三月八日御改正ニ付御番方之向剣鎗ニ而
御馬前御守衛被 仰付候ニ付而者右調練
修行可仕旨大御番頭両番頭新番頭江被仰渡
候ニ付右ニ準稽古仕旨井上河内守殿被仰渡
両御番大御番新御番之儀者銃隊調練御差止メ
ニ付支配々之者共茂右ニ準相止可申旨同様
被仰渡尤小十人家筋之儀者兼而被仰渡之趣茂
有之候ニ付銃隊稽古茂是迄之通仕居候得共
両御番大御番家筋之者者前条御差止相成
居候処炮術之儀者当今専要之儀ニ茂有之
既ニ此程野州表為討手両御番大御番被差
遣候節茂炮術之儀者専御用弁ニ茂相成
候儀故何卒銃隊調練御復古被
仰出両御番大御番家筋之者茂前々之通
稽古可仕旨被 仰出候様仕度左候上者
猶於私共茂格別ニ骨折熟達為仕候様
存込罷在候間此段奉申上候
一是迄巡邏相勤罷在候内傳通院江支配
組共屯集罷在非常之節者酒井雅楽頭殿
御差図ニ寄桜田御門外江相詰候様兼而被仰渡
有之候処此程巡邏御差止相成候ニ付如何
相心得可申哉万一非常之節者銘々支配之
者宅江相集候様兼而申達置私共ニ者元来
登 城仕候儀故御差図次第私共
罷越其旨申達進退可仕様仕度奉存候
且雅楽頭殿ニ者此程結構被蒙
仰候得共矢張是迄之通御差図御座候
儀者相心得可申哉是又奉伺候何レニ茂右
之簾何ン与か予御沙汰無之而者万々一
非常之節之心得方茂無之候間何卒可然
御沙汰之程奉願候以上
丑二月 小普請組支配
参政中之書付(一〇)
組之者心願之儀奉申上候書付
→ 現代訳
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
1 画像(翻刻付)
組之者心願之儀奉申上候書付 内藤隼人正
2 画像(翻刻付)
小十人
内藤隼人正組
高百俵拾人扶持 間宮秀之丞
内拾人扶持 御足扶持 丑三拾八歳
右秀之丞儀昨子年四月小普請組大井甲斐守支配より
小十人組江御番入被 仰付文武之道無懈怠厚心掛
既ニ昨七月中野州表浮浪之徒追討之節先役
竹内日向守一同罷越其刻物見或ハ急場之節者
身命ヲ抛相働其上行跡者勿論家事等至而
取締宜廉直之者ニ而一廉御用立可申者之由
且武術之儀者弓馬剣術共免許殊ニ弓術者
取立茂仕罷在候儀ニ付右日向守より別段見込之
趣於野州表茂田沼玄蕃頭殿江申上置候段
日向守より具ニ申聞候間猶篤与様子柄身請候処
同人申上候通相違無御座抜群御用立可申者与
奉存候然ル処此節御腰物方明キも御座候趣
承知仕候間右秀之丞兼々心願之御場所ニ
御座候ニ付可相成御儀ニ御座候ハヽ何卒格別之
御評議ヲ以右御場所江御撰挙被成下候様只管
奉歎願候依之不成一通見込之程奉申上候以上
丑二月
内藤隼人正
現代訳
慶応元年(朱筆)
組の者心願の儀申し上げ奉り候書付
内藤隼人正
(注)「扈十人組」とも書く、江戸幕府旗本の軍事組織、若年寄りに属し将軍を護衛し将軍出行の時先導をつとめる。二十人を一組とし、各組に小十人頭・組頭をおいた。『広辞苑』
内藤隼人正組
俸禄百俵十人扶持 間宮秀之丞
内十人扶持 御足扶持 丑三拾八歳
右の秀之丞は昨年(子(ね)年)の四月、小普請組大井甲斐守支配より、小十人組へ番入りを命ぜられました。文武の道に怠りなく熱心に心掛け、去る昨年七月中に野州(栃木県)表の浮浪の者を追討した折、先役の竹内日向守の一同が来られた時、物見の役を務め、また、事態切迫の節は身命を投げ打って働きました。日常の生活態度も良く整っており、廉潔で正直者なので、特に役にたつ者との事です。
なおまた、武術は弓・馬術・剣術とも奥義を伝授され、殊に弓術には、優れているので、日向守より格別に見込まれているとの事です。野州表へも田沼玄蕃殿へ申上げて置きましたので日向守から詳しく聞いていることもあり、いよいよ厚く処遇していたところ、同人が申上げた通りに間違いなく、抜群に御役にたつ者と思われます。
そこで、この頃将軍の身辺に仕える者も不足しているようですので、右の秀之丞がかねてから願っている場所でありますから、そのような機会がありましたらどうぞ格別のご評議をもって、右の御場所へ御推挙下さるよう、ひたすら嘆願申し上げます。
つきましては、ここに、格別のご配慮をお願い申上げる次第です。
(慶応元年)二月
内藤隼人正
参政中之書付(一一)
小普請入願伺
<翻 刻>
管理番号六二
遠山家文書史料番号三三一の内
1 画像(翻刻付)
小普請入願伺
2 画像(翻刻付)
小普請入願
七百石
御書院番
去子七月中旬より 織田伊賀守組
癇症ニ而寒熱 金森甚四郎
頭痛強其上気分 四十
差塞相勝不申候付
五百石
御書院番
去八月中旬より 柴田越前守組
癇症其上胸痛 細田猪之助
強今以同篇ニ付 四十一
四百五十石九斗余
御書院番
去子八月下旬より 本多日向守組
持病之痔疾差 安藤道太郎
発今以同篇ニ付 二十九
三百八拾七石
御書院番
去子七月中旬より 織田伊賀守組
癇症差発其上 清水興膳
気分差塞今 以 四十一
同篇ニ付
千石
御小性組
去子八月中旬より 井上志摩守組
疽症ニ而気分差 清水權之助
塞相勝不申今以 四十四
同篇ニ付
五百石
大御番
去二月中より 斎藤摂津守組
腰痛ニ而相勝 山田岩五郎
不申今以同篇ニ付 五十六
四百七十五石
内弐百俵御渡米
去子九月中旬より 大久保出雲守組
中気差発足痛 石原四郎左衛門
強相勝不申候付 五十一
四百五十石
大御番
当四月上旬より 大久保出雲守組
癇症ニ而相勝 鈴木久三郎
不申今以同篇ニ付 二十三
四百石
大御番
去十月中旬より 斎藤摂津守組
相勝不申其上 石野通三郎
疝積ニ而今 以 四十七
同篇ニ付
三百七十俵
大御番
去月初旬より 斎藤摂津守組
癇症強相勝 平岩鉚次郎
不申今以同篇 二十九
ニ付
三百俵
拾人扶持
大御番
去子九月より 稲垣若狭守組
疝積ニ而腰痛強 高宝四郎左衛門
寒熱往来相勝 六十五
不申候ニ付
三百俵
大御番
去十二月中旬より 斎藤摂津守組
足痛強其上 須田帯刀
寒熱強相勝 三十九
不申候付
三百俵
大御番
去子二月中旬より 稲垣若狭守組
疝積腰痛強 榊原弥七郎
今以同篇ニ付 四十九
弐百俵
内弐拾俵御渡米
大御番
当二月中より 斎藤摂津守組
足痛ニ而塞強 小幡栄三郎
相勝不申候付 三十ニ
弐百俵
大御番
当正月中より 斎藤摂津守組
脚気之症ニ而相勝 鎮目市左衛門
不申此節ニ至塞強 四十四
別而相勝不申候付
右之通ニ而御番難相勤候ニ付
小普請入奉願候