<翻 刻>
管理番号 二一
遠山文書 番号五〇二-一
1 画像(翻刻付)
和久羅波之記
2 画像(翻刻付)
蔵書
主将御系図草稿
之内少し相違候の儀も
有之様 并ニ付候事
其外此御物束粗々認(したた)申候
享和元 辛酉 九月 鈴木金蔵
水野東林様
一 義林様天正十九年御逝去の事雲林寺過去
帳ニハ如此有之候共疑敷事有之候必一決難
仕子細有之是は口伝後御遺候
一 伊藤太兵衛妹宗香大姉ハ
友忠様の御妾ニテハ無之候 友政様の御妾也
依って、友政継母と証有之も誤にて候
秀友様の御実母にて御座候
一 飯場間右衛佑友信様逆心と申儀御系譜にも如是記
有之候得共実ハ逆心ニテハ無之候旧記ニ天正二年
之春甲州勢力攻に攻落し候節飯場
3 画像(翻刻付)
場間左衛門本城の蔵へ押込生捕て進上
申ス下曽根之覚雲軒へ御預と御座候
又古記飯場間右衛門血戦深手負腹
を切べしと本城へ引取候処敵付込生捕
申し候身体不自在故虜と成申候
勝頼主其勇者成を憎しミ命を助け
信州伊奈軍の内箕輪と申処に堪忍
分の知行ヲ与へ住居申候天正十年の
春甲州崩れの時父子三人小諸にて生
害の由記有之候
一 阿テ羅ト申地名東美濃恵那郡の内
ニケ所木曽に一ヶ所都合三所有之此の書の
阿てらは手賀野村の内也明智小井田和
三ツグリ辺ノ阿寺の城トハ別也
一 友政公の妹武田勝頼室と記有は誤也
是は左近佑直廉公の娘君武田家へ
御入輿也此書ハ誤説仕候
一 次郎五郎友重討死十九歳
古書或は十八歳とも御座候
乍去是ハ十九歳ヲ是トスベキ也
4 画像(翻刻付)
一 平井八郎左衛門ト申事の外ノ古記ニハ多く
七郎左衛門後改頼母介ト御座候又八ノ字ハ
誤成るべきと存候
一 本文の内
自信長公為押信州岐岨筋
三人住阿手羅城
右の通記有之候岐岨筋ノ下三人ノ上ニ脱字有
之候古書ニ
友忠友重友政父子三人ト有之候八字脱漏
と相見え候
一 勘兵衛嫡男三郎兵衛後改勘兵衛ト
有之は誤りと相見候三郎兵衛殿始終改
名の儀不相見候後の勘兵衛殿と申ハ三郎兵衛
正辰之子息ニテ候
一 森武蔵守長一(ながかず)ハ長可(ながよし)ノ誤也
一 御系譜本文の内ニ 二行抹消の文有り
一 同文の内御鉄砲並統等
右統は銃の字ナルベシ
5 画像(翻刻付)
一 秀友公御兄弟御女子三人のミ記有之
此外ニ御三人御座候
嫡女 生駒主計室
二女 五十川了庵室 お久様
三女 加藤図書助室
四男 秀友
五女 遠山万五郎室 お政様
六女 五十川道専室 およめ様
七女 原孫平次室 お伝様
一 友貞公の御妹山村七郎右衛門室
後滋井中将殿室
右の通記有之候へ共山村七郎右衛門殿へ
御嫁娶(かじょ)御座候ハ
雲林寺様御二女お久様御事に候 七郎右衛門殿
夭死ニ付苗木へ御帰被成後ニ五十川
氏へ御嫁娶(かじょ)ト成
滋井家へ御入輿ハ友貞公の御姉様にて
御別腹御妾腹にて御座候御子
五十川家へ御養子ニ御出被成候て
6 画像(翻刻付)
五辻右京之佑英仲朝信ト申候
一 享保十七壬午 此午の字誤也
壬子也
一 友春様御出生日六月六日
六月七日ト記しも相見候追て御考合
の為記し置候
按ルニ六日ハ
奥雲寺様御忌日故七日ニ御祝かへ
被成歟実ハ六日なるべし
一 同御叙爵十二月六日ト記ハ誤也
以下上付紙(付箋)
英仲朝信
の御同腹
御兄弟
女子
信濃小頭殿
男子
竹丸殿
都合三人
右友貞公
の御姉様
の御腹ニ
御出生ニテ候
上付紙(付箋)末
十二月廿六日也
一 織田対馬守後讃岐守其后退翁
と御座候へ共是ハ誤とハ存候追て乍記
相分候ハバ委細御知らせ可申候
按に御法名元禄三庚午十月廿六日
本覚院殿前対州刺史也 *(刺史:国守のこと)
右の通有之候始終対馬守様
と御名乗被成候有之殊に享保九年
十二月頃の旧記に織田退翁様へ御
進物交肴寒中御見廻御通の趣
7 画像(翻刻付)
棚橋朝英の手記相見候然時ハ退
翁様ト本覚院様トハ 御別人ト相見え候
一 貞享元年九月廿一日
家綱公ヨリ御朱印頂戴と申ハ
誤ニ候
綱吉公ニ御座候
一 千村平蔵殿御預之日廿五日とハ
誤と相見候廿四日日付之書面ニ
有草御預候趣相見候間廿四日ヨリ
以前之事と存候
一 勝千代様江戸御下向時ハ
犬勝様と申候丸之字ハ古書ニ
見及不申候
一 智雲院様江戸へ御下向之事
実事ニハ候へ共此時ハ御安名ニテハ
之無シ
いまだ御妾分ニテ御格も御直り被不成
此時分
定テ御ぬい様と申候哉と存候何レニモ
後ニ記しもの故御法名ヲ記有之
8 画像(翻刻付)
此時ハ 友春之妾江戸へ下向ト
無之而ハ文儀不穏欤
一宝永七 鍛冶橋御門番被仰付
事不寝御座候
按ニ宝永六己丑六月九日半蔵門
番被仰付候御奉書ハ久貝田因幡守様
より遣わされ御相番酒井飛騨守様
同十二月廿二日御相番代り本多
若狭守様翌年迄御勤被成候
宝永七寅ノ四月廿一日
友春公御在所へ御暇御拝領
五月四日江戸御立十一日苗木
御城着ニテ候
右之通ニ候ハバ寅年鍛冶橋
御蒙任之理無之候欤
一 友章様御額直四月十七日
と記有之候へ共十八日かと相見候
田辺翁之旧記ニ誤相見候
9 画像(翻刻付)
一 四月廿一日就御代替談
家重公 御朱印頂戴之
家重公トハ誤也
吉宗公也 且又四月十九日
友章様御登城ニテ 御朱印
御頂戴同廿一日御在所江之
御暇初テ被仰出候
右日も違い
公方様御実名も違相見候
一友将公 八月十五日八歳ニテ亡父遺計
賜苗木城之有候
按ニ 右八月トハ相違之様相見候
一六月十四日水野和泉守様ヨリ御連名
御奉書到来
一同十五日 友将公之御名代阿部
讃州御登城御跡目
勝三郎様へ被仰付候
一 同御逝去の処へ春秋十八歳
ト記有之候是ハ右之通候へ共
公辺ハ廿歳也其訳不記候テハ
10 画像(翻刻付)
公辺之御記ト相違也
一 友央公之御譜之内ニ
同年 被仰 上歳松平播磨守
頼永三男越之進也
右同歳ト記ハ享保十七年ノ記也
草誤也 御願御差出ハ享保
十八丑ノ三月也
頼永ト申ハ越之進様御実兄也
御父播州公ハ頼明ト被称候
一 友張公
初テ御目見四月廿八日ト
有之ハ誤也五月朔日ニ紛無
之事候
十二月十七日御叙爵是も
違也
十八日ト御書上ニ相見候
一 同 実父 ー 頼永ト記も誤也
頼明公之五日ト申モ実事ニハ
可有之候へ共 公儀へ御届ニハ
11 画像(翻刻付)
私実父候也 今六日死去仕候
右之通相見候間六日ト心得可
然哉申候
一源之進様 源次郎様御名ヲ
諦心寺様御子様ニ列し
友張公御兄弟分ニ記有之候ハバ
誤御座候
一不退院様御忌日も廿六日ト記
有之候ハ誤りと存候 旧記ニ廿二日ニ亥
之及御大切廿五日御死之趣相見候
一 友清公ヲ御順養子御願書 延享元年十二月被
差出同廿八日夕方御奉書到来
同廿九日御願通被仰出し趣
記有之候へ共
延享二乙丑正月廿六日御差出之
同廿九日御仰出候ニ相違無之候
右本文相違之分粗々相記申候
完