御領分高辻心得

御領分高辻心得 [目録]


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<翻 刻>
 
管理番号「三三」
遠山家文書 史料番号「九四六」
 
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御領分高辻心得
  一 寛文四年辰年三月廿五日之日附ニ而
    御帳面御上被成候此年初而
    御朱印御改ニ御書上被成候村々高
    帳ハ慶長年中大久保石見守殿御
    検地帳面之内本高壱万五百弐拾
    壱石五斗余引残ル高千弐百弐
    拾三石領ニて其後御代々之上り免
    并開発年貢等定米ヲ集
    三ツ成ニして御帳面今末ニ壱ヶ条記
    申請相見申候
  一 右本高と申ハ美濃国役村々より
    相勤申郷村高と相見候
 
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  一 貞享元申子年四月 十一日ニ御帳
             ニ差出し候
    御朱印御改ニハ右辰年以来
    新開定米ヲ三ツ成ニ而御帳面
    末ニ壱ヶ条出シ申候
  一 佐見郷九ヶ村ニ候得共右両方共
    佐見郷ト壱ヶ村ニ記御座候故
    御領分村数三十八ヶ村相成候
  一 佐見九ヶ村ハ
 管嶋(クダシマ) 有本(アリモト) 吉田(ヨシダ)   小野(ヲノ)
 下嶋(クダシマ) 室原(ムロハラ) 久田嶋(クダシマ) 成山(ナリヤマ)
                 管嶋トモ
         徳田(トクダ)  由井(ユイ)    若松(ワカマツ)
 今打尾(ウトヲ) 大野(オオノ)  寺前(テラマエ)  廣野(ヒロノ) 是四ヶ村ハ古代九ヶ村ノ外也
  一 正保弐  年御絵図ニ池
    有之高四百弐拾四石七斗八升
    弐合ニ而候
  一 寛文貞享御帳面ハ三百六拾
    壱石六斗弐升三合と有之申候
  一 元禄十一戊寅正月御絵図
    御改ニハ本高之外ニ右九ヶ村之
    開発高六百三拾四石壱斗
    壱升弐合と書上申候
     右ニ訳有之候事ニ而候
     具ニハ難認略之
  一 元禄十一戊寅二月四日帳面
    大垣へ差出候
  一 御領内ハ土地悪ニ付右記之通ニハ
    不相成候事多故見積ニ而百姓共より断
 
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    次第ニ定納又者引免被仰付新田
    分ハ定米三ツ成ニして高ヲ記
  一 本高新田高共惣高ノ内之引免
    高ヲ引残り高ニ定米ヲ割付
    平均免◦[三ツ 壱]分九厘
  一 承応三午年以来定
  一 山中故年々少々宛開発
    任願定免ニ被仰付候収納米
    ヲ以石盛等をも相積申候故
    開発之年号等一々難記候
  一 元禄十一戊寅正月戸田采女正様
    松平丹波守様御家来衆へ大垣ニ
    於而美濃国絵図御改ニ付
    帳面差上候
  一 戸田様御家来立川孫助殿
    宮川武大夫殿へ元禄十一戊寅
    六月十二日苗木領村高帳面
    遠山和泉守内安田傳左衛門
    小川平左衛門より差出候
  一 慶長十五年村々検地有
    之其前後ニも有之候と覚申候
    遠山久兵衛友政様御代ニ而
 
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    大久保石見守殿御検地ニ而候
  一 正保以来新川新村新地
    沼川筋等大道筋附替候事
    変地之儀御替候処相変
    無之段書上相済申候
    是ハ元禄十一年御改絵図
    御用懸戸田様丹波様へ右
    之趣書出申候趣也
 
 
    御家法古書抜記
 
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  一 金子請払両替之事
      寛文三卯極月朔日より
      金壱両ニ付銀六拾四匁可へ
      御定被成候事
  一 炭之事
      同日より福地村竃炭壱俵
      六貫目入 代米四合御定被成候
  一 薪壱駄四束付 長三尺五寸
           廻り三尺
      右同日より 代米六合ニ被成御定候事
  一 江戸往来道中日数定
      三月より八月迄ハ六泊り
      九月より二月迄ハ七泊り
     右寛文元丑極月十八日御定被成候事
  一 同給人往来宿賃
      上ハ 壱夜 銭拾五文
      下ハ 壱夜 銭拾文
 
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      右同日御定候と相見候
  一 明し松壱荷壱人役扶持米六合
      但村々より  御城様へ届ヶ
  右寛文四年辰六月三日御定被成候
  一 弐間木丸太一本持代米壱升
      右同断
  右同日御定被成候事
  一 栗壱間之橋板 巾一尺  扶持米
           厚二寸    六合
      但村々より御城へ届ヶ壱枚壱人持
  一 栗弐間木五寸角壱本ニ付代米壱升宛
      但坂下大川端ニ而名倉之者請取
      上地乗下ス
  一 小麦壱升 代米五合
  寛文四辰六月廿九日
  一 家葺萱百把ニ付代米弐升宛
     但神明社さやふき可や被仰付候付
     如是
右ヲ以考候ヘハ 神明宮御さや
む可しより有来り候事明白也


  寛文五巳三月廿九日
一 江戸詰給人夫共壱人一日銀壱匁
              弐ト宛
   但寛文四辰極月迄ハ如前也
    壱匁六トツゝニ而候へとも当巳ノ正月
    より如是
同六午六月十八日
一 侍壱人扶持之者宿ニ而食たへ候共
  定之通塩噌被下候事
同年午九月十三日
一 間竿之事
   寛文五巳年迄ハ六尺ニ而候へ共当午ノ
   年より検地竿六尺五寸ニ相究候事
寛文八申四月廿三日
一 大久郷山ニ而山切候薪 御城へ
  届四駄ニ而駄賃米壱升ツゝ相定候
 
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寛文八申卯月廿三日
一 蛭川村山ニ而焼申煽炭六貫目入
  五俵付ニメ 御城へ廻し付駄賃
  壱駄ニ付米壱升ツゝ
同年  月  日より
一 大豆壱升代米八合可へ
   但村々より上候分
寛文九酉ノ二月より
一 油壱ケ月五合ツゝ 仏好寺へ
       按ルニ此時より佛好寺勤行始より
  一 杉原此下虫喰不得見訳
  一 鉄炮町之内ニ足軽次郎右衛門此頭
     朽而不見残念千万
  一 中間太郎右衛門此頭右同断
  寛文九酉閏十月八日
  一 給人江戸往来道中味噌塩共
    其所之値段ニ而勘定之事
  同十戊三月日虫喰不見
  一 蕨粉壱升代米壱升
  一 小紙一束之重サ四百三十二匁より
    四百匁迄但紙一枚ニ而九トツゝ之
    積り
      但一束ニ付代米三升七合宛
  寛文十一亥十月八日
  一 小紙寸法長壱尺弐寸五分
        巾八寸四分
  同十一亥十月八日
  一 桧葉葺板
     上 長二尺四寸 厚一分ツゝ 壱駄代米
       巾三寸五分より三寸迄    六升
     中 長二尺三寸 厚同断   同 五升
       巾同断
     下 長弐尺二寸 厚同断   同 四升
       巾同断
 
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  寛文十一亥極月十八日
  一 村々より出し商人ヲ新其村所々
    之渡場ニ而壱坪ニ付銀四ト五厘
    ツゝ運上ニ御定被成候事
  同十二子二月三日
  一 礼紙金壱分ニ付一丸四束ツゝ
  同十三丑四月三日
  一 村々年貢小紙願ニ付金壱分ニ付
    金子一両ニ壱丸二束ツゝ
  延宝二寅九月十八日
  一 江戸へ下候侍八月より暮之御切
    米出分迄中小姓分壱人ニ付
    金弐両ツゝ歩行並壱人[ニ付 壱両]
    弐分ツゝ御払被成候但正月より
    七月迄ハ御定ノ春取可へ之外ハ可し
    不被成候
   延宝三卯正月廿九日
  一 京都ニ而逗留之内旅行銭壱夜
    上下共ニ百拾五文ツゝ
  同年四月廿三日
  一 御家中より江戸へ誂荷物百匁ニ付
    駄賃銭拾壱文ツゝ当卯ノ四月廿一日より
    以来如如此相定候今度道中
    駄賃銭増申ニ付如此
  同年四月八日
  一 乗揚人足壱人[米 壱升]
    但扶持方手間賃共ニ如此
     宝永永元甲申四月三日
     七合五勺ニ相成候石垣郷衛門役中
  同六月十三日
  一 御臺所役燈壱ツト有明一夜
    油五勺ツゝ卯六月八日より定
     但六月七日迄ハ渡之間御臺所
     両所ニ一夜一ツ分二勺ニ候へ共有明一ツニ定
 
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  同日
  一 御馬屋役燈一ツ一夜ニ二勺ツゝ
  同年卯十月朔日より
  一 道中旅籠銭上下一夜八十文ツゝ
  同日
  一 中間下男道中昼食代一日
    一人四十文ツゝ
  延宝四辰三月十三日
  一 御家中江戸へ遣候衣類以前ハ
    駄賃なしニ被仰付候へ共向後ハ
    駄ちん定之通取申筈ニ候
  同年八月十三日
  一 蛭川村山ニ而焼申此下切テ不見
       弐合五勺ツゝニ自今以後
       十一字計見へ申候
  延宝七未六月十三日
  一 侍分扶持方舂代自今以後ハ
    不被下候間今十一日より勘定ニ定
    申間敷旨被仰渡候
  同九酉五月十八日
  一 御家中江戸へ誂荷物
    百匁ニ付十三文ツゝ駄ちん四月
    八日より御定二王り増
  天和三亥正月十八日
  一 右同断荷物百匁駄ちん銭
    十一文ツゝ正月元日より御定去冬
    道中駄ちん銭二王り減ニ付
  一 御巣鷹時分近所ニ而斧
    なと遠慮候様ニと申事有
    二月三月ノ頃ノ事と相見候
    前後虫喰文遍不詳也
 
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  一 天和二戌十二年西尾彦惣へ飯地
    塩見より願書有り此時分御代官
    当方支配と相見候
  一 同三亥二月岩井作衛門へ
    黒川村願書相見候此頃山方
    御代官と相見候
  一 同年二月福地与衛門へ五ヶ村
    願有之五ヶ坂下等之支配と相見候
  一 殿様御上り御下り之節人馬
    之事相見候へ共前後虫喰
    紙朽切候故何とも不相分候
    五ヶ坂下ノ人馬ニ成候ハ此時可と
    被察候追而可考
              書付ニ
  一 貞享五辰八月八日後藤
    助衛門殿宮地権兵衛小池
    傳兵衛ト有之其頃セと村
    庄屋代官也傳兵衛権兵衛ハ
    御年寄也
  一 元禄二年巳十月十二日鈴木
    安衛門殿犬地村より願書有
    此時分中通之御代官也
  一 間竿之事古ヘハ壱丈弐尺ニ而
    候処ニ寛文六午年より壱丈
    三尺之竿ニ而古田新田共改候へハ
    古へ 公儀御検地被成御当候
 
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    田畑大分引込申ニ付元禄二
    巳十月江戸大久保甚四郎様へ
    御札公儀之間竿寸法御聞合
    被成候処 公儀御勘定御小頭
    石原平十郎様より大久保様へ御報
    御手紙ニ壱丈弐尺弐分之
    由被仰遣ニ付向後其通之
    定ニ相成候
  一 水損等之節之見分之心得
    元禄四未十一月十八日安田傳左衛門
    田辺儀衛門郡奉行役中
    申上候子細ニ付向後其通ニ
    心得候へと田辺紋衛門殿
    小池傳兵衛殿より御指図有之
    此ニ子細ハ御勘定所
     万値段証文帳
    右之通之帳ニ有之由地方
    掛之役人心得可申事と
    東正衛門伝へ申ニ付如此記置
    もの也
  一 御城米代金納値段者其暮
    之初値段之受米値段
    正徳四甲午年より被仰付申候
    此時之御年寄小池市郎左衛門殿長沼
    八左衛門殿陶山直右衛門殿安田造酒右衛門殿
    也
 
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 一 御軍役郷足軽郷中間之
    員数ハ村々証文有之候へ共
    名倉一ヶ村之書付失候哉相見
    不申候
  一 右員数古帳ニ記有申候
    其帳面ハ
 


 
    右之通之古帳御勘定役
 
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  所ニ有之 纐纈与兵衛より鈴金蔵へ伝シ
古書之写ニハ村奉行住む所ニ有之と
記有之候  
追而可糺也
  右之帳之内


一 右人之名前 与三左衛門
金蔵向覚ニハ
盾喜左衛門ト申事
有候哉と存候へ共不慥
勘助
喜左衛門
猪右衛門


 
  ト申名前相見候与三左衛門ハ井口氏
  勘介ハ増田氏喜左衛門ハ追而可考
  猪右衛門ハ御家老也喜左衛門勘介
  与三左衛門之役儀難考大テイ
  目付吟味役村奉行等之内なるへし
一 切井(きり井)村◯赤河(アコヲ)◯犬地(イヌヂ)◯上田(ウヘダ)◯福地(フクチ)◯中方(ナカノハウ)
  飯地(イヒヂ)右中通七ヶ村安田孫左衛門
  年長
一 黒川村田ノ頭村神土村佐美中
  廣野村 宮部安左衛門年長
一 坂下村福岡村高山村下野村
  上野村田瀬村 宮地金衛門年長
一 毛呂窪村姫栗村蛭川村河合村
  宮地四郎衛門年長
一 瀬戸村日比野村
  是ニハ名不見虫喰不知
一 宮部安左衛門名之上ニ張紙
           宮地金衛門ト記
  宮地四郎衛門名ノ上紙ヲ張
           屋代吟助ト記
  宮地金衛門名ノ上ニ紙ヲ張
           安田傳左衛門ト記
 
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一 又右之帳之内
    御馬飼物割高事
  一 年連ハ 連之長三尺 大豆者
              く春者
      三百四十一連 保々清衛門前  五ヶ村分
      百五十連   安田傳左衛門前 南方
                     蛭川
      百九十弐連  宮地四郎衛門前 切井中ノ
                     方筋
                   峯下立飯地
      三百十七連  宮地金衛門前
                 白川黒川佐美中
     万治元戌十二月三日トアリ
      郷足軽郷中間
  一 三拾五人ハ内  足軽拾人
            中間弐拾五人   坂下村
  一 四人ハ  内  足軽壱人
              中間三人     上地村
  一 八人ハ  内  足軽弐人
              中間六人     下野村
  一 六人ハ  内  足軽弐人
              中間四人     田瀬村
  一 拾弐人ハ 内  足軽四人
              中間八人     福岡村
  一 八人ハ  内  足軽弐人
              中間六人     蛭川村
  一 九人ハ  内  足軽三人
              中間六人     毛呂窪村
  一 九人ハ  内  足軽三人
              中間六人     姫栗村
  一 三人ハ  内  足軽壱人
              中間弐人     河合村
 
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  一 三人ハ  内  足軽壱人
              中間弐人     飯地村
  一 弐人ハ  内  足軽壱人
              中間壱人     峯下立村
  一 弐人ハ  内  足軽壱人
              中間壱人     福地村
  一 九人ハ  内  足軽三人
              中間六人     中ノ方村
  一 拾六人ハ 内  足軽五人
              中間拾壱人    黒川村
  一 七人ハ  内  足軽弐人
              中間五人     切井村
  一 八人ハ  内  足軽弐人
              中間六人     犬地村
  一 四人ハ  内  足軽壱人
              中間三人     赤河村
  一 三人ハ  内  足軽壱人
              中間弐人     上田村
  一 拾三人ハ 内  足軽四人
              中間九人     神土村
  一 拾八人ハ 内  足軽五人
              中間拾三人    田ノ頭七村
  一 弐人ハ  内  足軽壱人
              中間壱人     名倉村
  一 五人ハ  内  足軽壱人
              中間四人     越原村
  一 拾弐人ハ 内  足軽三人     左見之内
              中間九人     吉田より徳田迄
  一 八人ハ  内  足軽弐人     左見之内
              中間六人     持井田嶋
                    廣野若松
      足軽合六拾四人
      中間合百五拾三人
        二口メ弐百拾七人也
     明暦三
      酉ノ正月割付
 
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   右ニ田ノ頭トアルハ白川筋柏本中屋
    州碕 大沢下地