→ 現代訳
<翻 刻>
管理番号「三五」
遠山家文書 史料番号「一二八一」
1 画像(翻刻付)
旧苗木藩士卒帰農事件ニ付歎願
旧苗木藩士卒共儀去ル明治三庚午年旧知事
遠山友禄ヨリ伺ノ上帰農聞届相成居候処
今般右事件ニ付苦情差起リ歎願申出候
子細ハ元来訣地ノ儀ハ美濃ノ東隅ニシテ
四面飛騨信濃ノ山岳連続シ丹車ノ通行
モ不相成寒邑僻陬ニ有之随テ人心モ頑固
蒙時ニシテ世態ノ変更ヲモ不知ノ輩ノミニ
御座候処御維新以来藩庁ニ於テハ
朝旨ヲ奉戴シ旧習一洗改革ノ実効
相表候見込ミニテ兵農一途ハ当今ノ急務
ト相心得一藩へ帰農還禄之儀説
2 画像(翻刻付)
諭致シ候処右様相成候テハ生活ノ期
途更ニ無之間説諭ニ随ヒ難キ旨士卒
共ヨリ申立候ニ付藩庁ヨリ猶又乃利
解候ニハ帰農致候トテ其侭差置候
儀ニハ無之四五年ノ内ニハ漸ヲ以テ山林不毛
ノ地ヲ開墾シ田畑ヲ起シ或ハ楮桑茶ノ類
諸植物ヲ播種セシメ一同へ割與へ
其余産物ヲ盛大ニシ右利潤ヲ以テ資
本金ヲモ分付致シ負債等ハ不残償却
致シ遣スへキ候相達シ候処士卒ノ者共
モ漸々屈伏致シ帰農出願ニ及ヒ候間早
速旧知事ヨリ伺ノ上聞届一時手当トシテ
士卒夫々へ扶助米差出候得共右ハ少分ノ
儀ニテ営業ノ基本ニハ難相立事ニ御座候
尤モ卒ノ者共ハ年季抱ノ名目ニテ其安々
譜代世襲ノ者ニ相違無御座候処誤テ
年季抱ノ者共ナル趣ニ御届申上候段麁
忽ノ至奉恐入候右ニ付先ツ生産会社
ヲ創立シ掛リ役員ヲ設ケ骨肉ノ物産取
調へサセ新田開発ノ手順旧士卒負
債償却ノ方法等モ種々商議熟談申
間モ無ク翌辛未年七月苗木藩被廃
更ニ苗木県被置候旨被仰出知事
儀ハ免官相成俄ニ帰京致シ旧
3 画像(翻刻付)
士卒持産ノ方法モ半途ニメ纏り
不申負債償却ノ約モ行ハレス不得止
破談ノ儀申達シ極貧難渋ノ者
二拾名程へ右負債利子ノ内差加トシテ
僅カ二三円ツゝ当座救助金子下ヶ渡
候儀ニ御座候引続キ同年十一月苗木
県岐阜県へ合併被仰出候ニ付引渡
ノ事務一時ニ蝟集シ拾名ニ足ラサル旧
官員ニテ昼夜勉強翌壬申年三月
岐阜県へ引渡相済私共始一同事務
取扱被免候最前旧士卒共見
込ニテハ知事ハ世襲藩庁モ永ク
揺動無之心得ニテ只管藩制改革
ノ旨意ヲ體シ且ハ持産ス約モ有之
等深キ思慮モ無之帰農仕候処
豈図ン一年ヲ出スシテ廃藩相成知事
始諸官員不残免職被仰付候ニ付
前約悉ク不相整大ニ失望仕候趣
ニ御座候前顕ノ通り旧士卒持産
ノ儀ハ飽迄モ実功施行可知知事
始ノ素志ニ有之候得共廃藩ノ命令
一出シテ百事齟齬仕半途ニシテ処分
ヲ遂ケス違約ノ廉ニ相成旧士卒ノ輩
ヲシテ困難ニ陥ラシメ候段必竟旧藩
4 画像(翻刻付)
ニテ改革ノ実効相立度志念ヨリ躁進
ノ挙動ニ及ヒ今日ニ至り不都合相生シ候
儀トモ不心付慚愧ニ不堪奉存候且又
岐阜県ハ今俶引渡ノ節右授産方法
事実明細引次可申筈ノ処其儀ニモ
不及甚以テ麁漏至極職掌難相立
奉恐入候右事件ニ付テハ私儀何様
ニモ譴責被仰付旧苗木藩士卒
共ノ儀ハ何れも自営ノ道相立永ク
天恩ニ沐浴仕候様出格ノ御仁愛ヲ以テ
早々御処分被成下度此段謹テ奉
歎願候以上
岐阜県貫属士族
明治八年三月七日 青山直道 印
戸籍寮
御中
右戸籍寮岡田士属殿落掌ノ事
三月七日
現代訳
旧苗木藩士卒帰農事件に付歎願
旧苗木藩士卒共儀 去る明治三年庚午年旧知事
遠山友禄より伺いの上、帰農聞き届け相成り居り候処、今般右事件に付苦情差し起こり歎願申し出候。
子細は元来託地の儀は美濃東隅にして四面飛騨信濃の山岳連続し、舟車の通行も相成らず、寒村僻所です。
随って人心も頑固蒙(おろか)、時にして世態の変更をも知らぬ輩のみにある処、御維新以来藩庁においては朝旨を奉戴し、旧習一洗改革の実効、相表れる見込みにて兵農一途は当今の急務と相心得、一藩へ帰農還禄の儀を説諭致し候処、右様相成り候ては生活の途更にない間、説諭に従い難き旨、士卒共より申し立て候に付藩庁より、猶又の利解候には帰農致し候とてその侭差し置く儀にはこれなく四五年の内にはだんだん山林不毛の地を開墾し田畑を起こし或いは楮桑茶の類、諸植物を播種せしめ一同へ割与へ其余産物を盛大にし右利潤を以て資本金をも分付致し負債等は残らず償却致し遣すべき段相達し候処、士卒の者共も漸く屈服致し帰農出願に及び候間早速旧知事より伺いの上、聞き届け一時手当として士卒それぞれへ扶助米を差し出し候えども右は少分の儀にて営業の基本には相立ち難い事にござ候。
尤も卒の者年季抱えの名目にてその実、譜代世襲の者に相違無くござ候処、誤って年季抱えの者共なる趣きに御届け申し上げ候段粗忽の至り恐れ入り奉り候。右に付、先ず生産会社を創立し、掛役員を設け管内の物産取り調べさせ、新田開発の手順は旧士卒の負債償却の方法等も種々商議熟談申す。
間もなく、翌辛未年七月、苗木藩廃せられ、更に苗木県が置かれ候旨、仰せ出られ、知事儀は免官に相成り、俄かに帰京致すに旧士卒は授産の方法も半途にて纏まり申さず、負債償却の約束も行われずやむを得ず、破談の儀、申達し、極貧難渋の者二十名程は右負債利子の内、差し加えとして僅かに三円ずつ当座救助金子を下げ渡し候儀にござ候。引き続き同年十一月苗木県が岐阜県へ合併を仰せ出られ候に付、引き渡しの事務が一時に増集し十名に足りない旧官員で昼夜勉強し、翌壬申年三月、岐阜県へ引き渡し相済み、私共始め一同事務取り扱いを免じられ候。
最前旧士卒共の見込にては知事は世襲し、藩庁も永く揺動無しの心得にてひたすら只管藩制改革の旨、意を体し且つは授産の約も有るかたわら、深き思慮もなく帰農仕り候処、あに図らず一年を出ずして廃藩置県に相成り知事始め諸官員残らず免職仰せ付け候に付、前約は悉く相整わず大いに失望仕り候趣にござ候。
前顕の通り旧士卒授産の儀は飽く迄も実地に施行さるべく知事始めの素志にあったが、廃藩の命令一つ出て百事に齟齬仕り半途にして処分を遂げず。違約のかどに相成り旧士卒の輩をして困難に陥らしめ候段、必竟旧藩にて改革の実効相立てたく志念より躁進の挙動に及び今日に至り、不都合を相生じ候儀とも心付かず慚愧に堪えず存じ奉り候。
かつ又、岐阜県は合併引き渡しの節、右授産方法の事実を明細に引き次ぎ申すべき筈の処、その儀にも及ばず甚だ以て麁漏至極で職掌は相立ち難く恐れ入り奉り候。
右事件に付いては私儀、何様にも譴責仰せ付けられ、旧苗木藩士卒共の儀は何れも自営の道が相立ち永く天恩に沐浴仕り候様、出格の御仁愛を以て早々御処分成し下されたく、此段謹んで歎願奉り候 以上
岐阜県貫属士族
明治八年三月七日 青山直道 印
戸籍寮
御中
右 戸籍寮岡田大属殿落掌の事
三月七日