資料解説
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戦後、大都市へ通勤する人々が生活環境のよい周辺地域に居住するようになり、住宅がさかんに建設されました。昭和30年代半ばから名塩周辺も阪神都市圏のベッドタウンとして注目されます。通勤客は年々増え、国鉄福知山線複線電化工事の計画が持ち上がりました。生瀬-道場間12.2kmは既存の路線での工事が難しく、別ルートで複線化を進めることが決定。新ルートが名塩地区を通ることから地元中心に「新駅の設置を」との声が強まりました。昭和50年代に入ると工事全面着手の形が整い、宝塚-篠山口間は昭和54年12月のトンネル工事起工式を皮切りに次々と工事が進められました。新ルートは生瀬駅西の太多田川、武庫川合流点付近から名塩川までが第一名塩トンネル、つづいて第二名塩トンネルとなり、東山台地、読売ゴルフクラブの直下を通って、現在の武田尾駅近くまでほぼ一直線となります。市は起工式前年の昭和53年、国鉄に新駅設置の要望書を提出。57年に国鉄は新駅設置を承認しました。昭和61年11月1日、写真に写る第一・第二名塩トンネル間の開口部に名塩川の上をまたぐように西宮名塩駅が開業しました。
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